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管理者室より 2019年度

記事ID:0000368 更新日:2021年1月4日更新 印刷ページ表示

No186 令和元年の想い

 もうすぐ令和元年が終わろうとしています。皆さま方にとって令和元年はどのような年だったでしょうか。
 私は最初「令和」の音を聞き、そして文字を見たとき、万葉集の「梅花の歌」の序文など全く知りませんでしたが、響きの良さと字体の美しさを感じました。思い込みかもしれませんが、これまでの中国の書物からとられた元号に比べ優しさや美しさを感じました。安倍首相が「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が育つ」と意味を説明されましたが、それに「うんうん」と頷き、また英訳の「beautiful harmony」に「なるほど」と思いました。
 しかし、元号が変わっても今年もまた豪雨災害が起こり100人を超える方が亡くなり、多くの方々が被害に遭われました。しかもそれらの災害が、これまであまり起こらなかった地域に、そして思いもよらない時期に起こりました。私の生まれ育った京都府の北部地域でも子どもの頃に「竹野川」という川が氾濫を起こし、田畑が水につかった光景を覚えていますが、床上浸水したり家が流されたりした被害は記憶になく、その後は堤防も強化され、いっそう安全になったと思っています。でもおそらく、今年被害に遭われた地域も以前の経験からそれなりの対策は行ってこられたにもかかわらず、大きな河川の堤防が決壊するなどの、まさに想定外の災害が起こってしまったのだと思います。要はこの国は「災害はなんでもあり、どこにでもあり」の国であるということです。すべてのこと、最悪のシナリオを常に意識し、早めに危険から逃れる段取りを考えておかなければならないということです。
 私の勤務する福山市民病院は、令和元年はやや逆風の年であったように思っています。8月末には某新聞の地方版に「黒塗り、法の趣旨損なう」という見出しで、当院の医療事故報告書の公開の在り方について批判記事が掲載されました。私は特に医療に関する個人情報の取り扱いは慎重であるべきと考えています。また、医療事故の内容を公表することで病院職員の安全に対する意識が高まり、事故を減らすことになる、という考えにも疑問を持っています。患者さんやご家族からの疑問には丁寧な対応を心掛け、カルテなどの開示請求にも誠実に対応していますし、事故が発生すれば会議を開き(ときに外部委員も交えて)発生要因や再発防止策を検討し、必要に応じ日本医療安全調査機構にも報告しています。私はマスコミが好きでも嫌いでもありませんが、もともと報道は医療に厳しい論調が多いと感じています。報道の皆さんには特に医療に関しては、起こったことを報道するだけではなく、なぜ起こるのか、背景には何があるのかなど、今のこの国の医療の問題点を書いてほしいと思っています。多くの医療従事者はいつも、患者さんやご家族のことを一番に考え、一生懸命仕事をしています。ときには彼らにスポットライトを当ててください。
 私自身の令和元年は可もなく不可もない一年でした。体重を少し減らしたいと思って2016年の春から始めたウォーキングも、目的は達成できていませんが続いています。歩きながらよく思うのは病院のこと、家族のこと、そして自分自身の終活についてです。若い頃から「人生の終え方」はよく考えていました。まだまだ先と思っていましたが、もうそんなことはないでしょう。これには長く深い黙想も必要なので、定期的な「管理者室より」への投稿は今回を以てお休みにさせていただきます。
 長い間、目を通していただきありがとうございました。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No185 大塚国際美術館

2019年11月11日

 本年10月、徳島市で全国自治体病院学会が開かれました。この学会は自治体病院に勤務する人ならだれでも参加できる学会で、医療職から事務職まで職種もさまざま、年齢もさまざまで、男性より女性の参加者が多い学会のようです。
 今年の学会には当院からも多くの職員が参加し、14題の発表をしました。学会を主催した徳島県の病院を除いては中国四国地域では2番目に多い数でした。私は以前から「よく学びよく遊ぶ」病院が元気のある病院だと思っています。「学び」は日頃の学術活動、院内の講演会・研修会の熱気、そして「遊び」は院内の職種横断的なバスケットボールやフットサルなどのスポーツの活動、また院内のゴルフコンペへの多くの職種の皆さんの参加などです。「よく学びよく遊ぶ」病院は楽しい病院で、「働きたい」と思ってもらえる病院だと思っていて、この病院もそんな病院に近づいている気がしています。
 学会の1日目、半分くらいの人の発表が終わりましたが、その夜、現地で懇親会&慰労会が開催されました。2日目の発表が残っている人には慰労というより激励会だったと思いますが、職種や年齢、院内でのポジションなどを超えたつながりを感じました。また、ちょうどその日が私の誕生日で(どうも会場で誰かさんにつぶやいたようです)サプライズの企画が用意されていて、二重、三重に楽しい時間を過ごすことが出来ました。
 さて、大塚国際美術館です。私は学会の前日から自治体病院学会に関連した会議があり徳島に行ったのですが、その会議場が大塚国際美術館だったのです。この美術館に展示してある作品は西洋の名画の原寸大の陶板複製画で、収蔵されている作品は約1,000点あるとのことでした。私はこの美術館、名前は知っていましたが、このたび初めて行きました。学会の楽しみの一つに、これまで知らなかった場所に行くことができる、知らなかったことを体験できることなどがありますが、今回の徳島もそんな学会になりました。会議の後に懇親会がこの美術館のシスティーナホールで行われたのですが、懇親会が開かれるまでの1時間、美術館に展示してある作品を鑑賞する機会がありました。
 学会関係者の方が、「自由に館内を見て回られる人と美術館の職員の解説を聴きながら回られる人に分かれてください」とアナウンスをされましたが、私は解説を聴きながら回るほうを選びました。この解説付きの名画鑑賞が実に良かったのです。これまでも美術館に行ったことはありますが、解説付きの鑑賞は初めてのことで、作品を鑑賞するためには多くの情報を知っていたほうが圧倒的に楽しいことが分かりました。例えばレンブラントの「夜警」、この絵は中央に夜警団の団長と副団長が描かれ、向かって右側には太鼓を携帯しバチを手に持つ男の人、その左に犬、背景には夜警団の人たちが描かれていますが、私はこれまでこの絵をストーリーのある絵、動きのある絵と思って見たことはありませんでした。実はこの絵、副団長の方が立派に、またリッチに描かれているそうですが、理由があるようです。夜警団に「出発」の合図をすると直ちに太鼓打ちが太鼓をたたき、それに驚いた犬が太鼓打ちを見上げている、という構図だそうです。また、有名なボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」は、風が絵の左から右へ吹いているのはヴィーナスの髪のなびく方向で分かりますが、実は左側にゼフュロスという風の神がいて、彼が頬をいっぱいに膨らませて風をヴィーナスに送っているのです。実はその風が白っぽい線で描かれています。私はこの絵の本物をフィレンツェのウフィッツィ美術館で見ましたが、何も知らずにヴィーナスばかり見ていました。美術鑑賞にとどまらず、なんであっても腰を据えて学習すること、学習したうえで対処することが大切で、それを感じさせてくれた解説付き名画鑑賞は勉強になりました。この歳になっても学ぶことばかりです。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No184 多死社会の現実

2019年9月30日

 今年6月のある日、新聞の大見出しに「人口自然減 初の40万人超」、中見出しに「昨年 出生率1.42 3年連続低下」、そして小見出しに「死亡 戦後最多136万人」とありました。この国の人口は2008年(平成20年)の1億2,808万人あまりをピークにそれ以降減少していて、これから団塊の世代の後期高齢者化が始まり、多くの人が亡くなる、いわゆる多死社会に突入することは知ってはいたものの、40万人減という数字には少なからずビックリしました。私が仕事をしているこの福山市、今年8月末の人口は46万9,037人であり、この福山市が消えてなくなるほどの人口が昨年は減少した、ということです。
 No96に「まちが消える」を書きました。2014年に日本創生会議から、2010年から2040年までの30年間に、この国の「消滅可能性都市」が896市町村あると報告されました。この報告も相当ショッキングな報告で、聞きたくない将来を聞かされた感じがしましたが、「40万人超の人口減の報道」はまさにその時が近づきつつある、そんな印象を受けました。「人生100年時代」と言う言葉を最近よく耳にしますが、100年生きても必ず人は死んでいくわけで、以前発表された年間予測死亡者の数が多少変わっても多死社会が到来することは間違いありません。ある民間会社の報告では死亡者数のピークは2040年で166万9,000人が亡くなるとされていて、その後も年間150万人あたりで高止まりをするそうです。一方、出生者の数は死亡者数がピークの2040年は67万人ほどで、この年は差し引き100万人ほどの自然減が見込まれています。なんと、こうなれば「まちが消える」どころではなく、2年間で隣の「岡山県が消える」、さらに3年たてば「広島県が消える」ということにすらなってしまいます。
 この国の人口は明治の初めごろ(1870年頃)は3,400万人ほどだったようですが、その後100年が経過する頃には1億人を突破しました。国の経済発展、それに伴う医療、保健、福祉の充実、国民の健康への意識の高まりなど多くの要因があり平均寿命が延び、またこれもさまざまな要因があると思いますが、婚姻数の低下、晩婚化、出生率の低下、ライフスタイルの変化などから少子化が進行し、今のこの国の人口の態様となったと思っています。そしてこの後の人口の推移ですが、中位の予測では2060年には8,674万人、2100年には4,959万人となっています。今と比較すると7,000万人の人口減です。大都市周辺以外では人を見かけることも困難になるのでしょうか。そんな100年後のこの国、どうなっているのでしょうか。今の国の産業規模、社会構造を維持しようと思えば、移民などによる働き手の確保、あるいは人に代わる知能をもつロボットや高度な業務遂行システムの開発などが必要で、私の想像を超えていますが、課題はきっと山積みでしょう。21世紀はアフリカの世紀になると予測されていますが、果たしてこの国は世界の中でどのような立ち位置にいるのでしょうか。私には分かりませんが、是非、この国に暮らす人たちは、これからも「日本人の心や文化」、「自然や情景の美しさ」などを大切にしていてほしいと思っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No183 日本人はどこから来たか

2019年8月28日

 昨年、NHKのテレビ放送で人類の歴史を放送しているのを見ました。その中で、現代人の中にもネアンデルタール人の痕跡が残っていると言っていましたが、人類の歴史、とりわけ、アフリカを出たわれわれの祖先が、どのようにしてこの国にたどりついたのか、大いに興味があります。
 ホモサピエンスがアフリカを出たのは10万年ほど前と言われています。そのあと、ヨーロッパや中東、西アジア、やがて東アジアへと拡がっていったようですが、東アジアへの拡がりはヒマラヤ山脈の南側と北側のルートをたどったと考えられています。南側のルートをたどった先祖は現在のインドネシアの島々、マレー半島に到達したそうです。当時は氷期で気温は低く海面は今より80mほど下がっていて、これらの島々、半島は陸続きだったようです。こうして4万8,000年ほど前には南側ルートのホモサピエンスは東アジアに達し、そこから中国南部、台湾あたりに入ってきたようです。北側のルートは少し苛酷なルートで北極海沿岸にも人類の遺跡が存在しているそうですが、大きなルートはシベリアからモンゴル、中国北部、朝鮮半島という足跡が考古学的な調査手法から分かっているそうです。
 日本には3万8,000年以上前の人類の痕跡はないそうです。以前、明石原人という原人のことを聞いたことがありますが、明石原人は原人ではなくホモサピエンスということです。さて、日本にやってきた日本列島人はどのルートから日本に入ってきたのでしょうか。日本にはどのルートをたどるにしても歩いては入ってこられません。国立科学博物館の海部陽介さんは、対馬を通るルート、台湾・沖縄を通るルート、北海道からのルートの三つのルートを唱えておられます。日本で見られる最も古いホモサピエンスの遺跡は3万7,000年~3万8,000年前の遺跡で本州から南九州までの地域で見られ、その発掘物の均質性から同様の集団から拡がったのではないかと考えられ、そのルートは対馬ルートであろうと推論しています。つまり、対馬ルートから日本に入ってきた集団が「最初の日本人」であるということになります。それにしても対馬から日本に渡ってくるには海を渡らなければなりません。朝鮮から対馬、対馬から九州、80mほど海面が低い時代でもそれぞれ40kmの航海になるようです。この航海術を身に付けたホモサピエンスは、アフリカを出てアジアの南側のルートをたどった人たちの他になく、彼らが対馬から日本へ渡来したのだろうと説明されています。台湾・沖縄から日本にたどり着くルートも大航海が必要です。彼らも南側ルートをたどった集団で、こちらは対馬ルートよりもさらに長い航海が必要であり、彼らが果たしてその航海をなしえたかどうか、実は海部さんたちは古代船(草や竹、木の船)を作り、台湾から与那国島までの航海を試みていますが、まだ成功していないようです。
 いずれにしても人類はアフリカが起源であり、われわれの祖先は10万年ほど前にアフリカを出て、その子孫である私たちは現在この国に住んでいるわけです。自分の周りにいる人たちはもともとの祖先は一緒かも知れません。そうでなくとも、長い道のりを一緒に旅をしてきた仲間であることは間違いないでしょう。相手を思いやり仲良くするしかないと思いませんか。明日からでも周りの人に対して笑顔で接してみませんか。きっと気持ちも良くなるのではないでしょうか。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No182 号外-やっぱり笑顔-

2019年8月14日

 8月の初め、20歳の女子ゴルファーが素晴らしいことをやってのけました。なんと、42年ぶりの日本人海外メジャー制覇です。そして、なんとその女子プロ、渋野日向子選手、私の自宅からそれほど離れていない岡山市東区の出身なのです。
 渋野さんは1998年生まれの黄金世代と言われる選手たちの一人です。それでもその選手たちの間では決して先頭を走っていた選手ではなく、15歳の時にアマチュアながらツアー優勝した勝みなみプロ、日本女子オープン選手権を2連覇して現在はアメリカを舞台に活躍している畑岡奈紗プロなどに比べれば遅れてきたビッグルーキーで決してエリートではなく、実際渋野さんはプロテストも1回目は失敗しています。地元のテレビ局の特番で、高校時代のゴルフ部の監督が、「渋野は高校卒業時、プロゴルファーは目指さないと言っていたが、渋野が目指さないで誰が目指すのか、と助言した」と言っていました。確かに彼女自身、岡山県の女子ジュニア3連覇とか中国女子アマのチャンピオンとか地方レベルでの実績はあるものの、全国レベルの実績はなく、迷いがあったのだと思います。
 私も今年の春まで渋野さんのことは知りませんでした。はじめて彼女を知ったのは今年の4月、フジサンケイレディスクラシックで2位になった時からです。この試合のTV中継で彼女の帽子、ウェアの肩口だったかに見慣れたRSKのロゴマークが張り付けてあるのに気が付いて、彼女が岡山県出身の女子プロだと分かりました。このRSKのマークは岡山県人ならほぼ誰もが知っている「山陽放送」のロゴなのです。そして確かに彼女はこの試合のときにもにこにことよく笑っていました。そして彼女、その2週後に行われた国内のメジャー大会に優勝してしまったのです。この試合も少しだけ見ましたが笑顔でした。日本の女子のトッププロにはミスショットをしたりパットが入らないと、あからさまに不機嫌になる人がいます。その人の試合は見ていると気分が悪くなるので極力見ないようにしていますが、渋野さんは見ていて気持ちのよくなる、見たくなる選手です。
 中国地方で有名なゴルファーを排出している県は何と言っても広島県です。少し古いですが倉本昌弘プロ、アメリカのツアーでも勝った今田プロ、日本の賞金王になった谷原プロ、アマチュアでは今年マスターズにも出場した日本ランキング1位の金谷選手など、女子プロだと岡本綾子さん、佐伯三貴さんなど、本当にすごい選手が大勢おられます。それに比べ、岡山県出身のツアーで活躍しているプロゴルファーは藤本麻子さんくらいだったので、これからはゴルフ中継を、高校野球を見ている感覚で楽しむことが出来そうです。
 さて、渋野選手はイギリスから帰国した日、空港で記者会見、その後日本記者クラブでも記者会見をしました。10時間を超えるフライトの後の会見です。いくら若いとはいえ、疲れていると思いますが、どちらの会見でも笑顔を絶やすことなく丁寧に質問に答えていました。私はこの日本記者クラブでの会見をYou Tubeで見ましたが、質問を受けたときは必ず顔だけでなく座り直すような感じで身体全体を質問者の方に向けて、質問を聞き、そして答えていました。私はこれまで、このような会見を見た記憶はありません。お父さんや、お母さん、地域の人たちから大切に、また丁寧に育てられたのだろうと勝手に想像しました。そして、この人は人を和ませ、人を引き付ける天性の資質を持っているのだと強く思いました。
 何と言っても笑顔です。笑顔は万国共通であることを全英女子オープンは見せてくれました。笑顔は人を優しくし気持ちよくさせます。渋野選手にはこれからも、怪我などせず、永く活躍してほしいと願っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No181 谷間の想像力

2019年7月30日

 糸井通浩先生、私の高校2年、3年の時の担任の先生です。教科では現代国語や古文を教わりました。
 普通、高校では教科ごとに先生も異なり、生徒も小生意気にもなり、担任の先生とクラスの生徒との関係は希薄になっていきそうなものですが、糸井先生はどこか違いました。先生を含めた有志で一緒に山登りもしました。卒業を控えた時期だったと思いますが、「君たちに」と言って、『南部牛追唄』を歌われました。なぜ『南部牛追唄』だったのかは今でも分かりませんが、こんなことをされた担任の先生は他にはいなかったように思います。そして何より、糸井先生の私たちの高校での在任期間は2年だけで、私たちが卒業したその年に転勤をされました。つまり、われわれのクラスの50名ほどだけが担任をしていただいたというわけです。
 昨年秋、高校の同級生から糸井先生の「傘寿(さんじゅ)の祝い」をするから出てこないかと手紙がきました。高校を卒業してから何年間かは決まって1月2日に田舎の喫茶店でクラス会をしていて会うこともあり、また年賀状のやり取りもしていましたが、いつの頃からか疎遠になっていました。その同級生からの手紙には、先生が最近、『谷間の想像力』という本を出版されたことも書いてありました。
 『谷間の想像力』、タイトルの響きの良さと先生が書かれた本だということもあって、早速購入しました。この『谷間の想像力』は先生がこれまでにさまざまなところに書かれてきた文章を集めた「随想録」で、タイトルは大江健三郎さんの育った愛媛県内子町の谷間の村こそが、大江の想像力を培ったと先生が感じたことから取られたようです。谷間から眺めた「山」の向こう側の「街」の世界をイメージすること、「街」を越え海の向こうをイメージすること、これらが大江の想像力の原点となったのだと書かれていました。
 先生はずっと言語―「ことば」―に関わって来られた言語学者です。「ことば」とは何か、「ことば」の機能とは何かです。先生は「ことば」のおかげで、伝える・知る・分かる・考える・作りだす、これらのことが出来るのであって、これが「ことば」の機能だと言われています。「ことばが拓(ひら)く」、「ことばで拓(ひら)く」のであって「想像」は「ことば」なくしては深まらないとも書かれていました。このあたりに来るともう私には、「ことば」の大切さは分かっていても理解しがたくなってしまいます。
 この『谷間の想像力』の中には「大江山」の歌についても書かれていました。「大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立」という小式部内侍の歌をご存知の方も多いと思います。私は出身が丹後なので、丹後を表現するとき、この歌や「大江山の鬼退治」の話をしていました。ところが、この大江山、実は丹後の大江山ではなく山城の大江山のことで、私は知りませんでしたが大江山は二つあって、山城の大江山の方が定説だそうです。よく考えればそうでした。遊び好きな鬼といえども、丹後の大江山から夜な夜な都へ出向くことなど到底無理な話です。
 先生は『風呂で覚える百人一首』なども上梓されています。帯に「水にぬれても大丈夫!」と書かれていますが、記憶力の衰えた今、覚えるつもりで持って入ったらのぼせあがって意識が飛んでしまうのではないかと思い、まだお風呂には持って入っていません。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No180 ある学会-英語化に思うこと-

2019年7月3日

 本年6月、高松で日本肝胆膵外科学会が開かれたので、出席してきました。この学会はその学会名の通り、肝臓や胆管、胆嚢、膵臓などの悪性腫瘍をはじめ、その他の肝胆膵疾患の外科治療を主に論ずる学会で、当院からも7題の発表をしました。この国には学術分野ごとに実にさまざまな学会があり、医療の世界でも数多くの学会があります。私は今でこそ多くの学会を退会していますが、現役の外科医の頃は10いくつの学会に属していました。家内からは「雑誌も読まないような学会なんて辞めたら」といつも言われていました。私ですらそうなのですから、大学の教授ともなればこんな数ではおさまりません。年会費、学会出張費など大変だと思います。
 さて、この肝胆膵外科学会の発表、討論ですが、2017年の開催からすべて英語化されました。つまり発表は英語、そして質問などの受け応えも全て英語を使うことになりました。完全英語化になる前にはシンポジウムとか特別なテーマに限っては英語、ポスター等での発表は日本語で、といった具合に、準備期間は何年かありました。英語化の目的は学会をグローバルなものにしていくということ、またこの国の素晴らしい肝胆膵外科技術を世界に広く知ってもらうこと、海外からの発表者の参加を促したいことなど、多くあると思います。確かに以前に比べると海外からの発表者も増えているように思いました(今回は1,300人程の発表者のうち約100人が海外からだったようです)。
 昨年の学会が終了した後、「完全英語化」についてのアンケート調査があり、その結果は学会のホームページに公表されました。まさに賛否両論です。皆さんはどのように考えられますか。強烈な反対意見を覚えています。「質問されても分からない人が英語で受け応えをする。座長も意味が分かっていない。底の浅い議論しかできておらず学術集会の体をなしていない。英語での発表が重要なら海外の学会で発表すればよい」などが書かれていました。確かに討論の質は少し落ちたように私も思います。もちろん、日本人でも英語のできる人は多くいて、流暢な英語で発表したり、活発なディスカッションを行っている人はいます。しかし、会場の聴衆の中には理解できていない人もいそうです。まだ英語化されて日も浅く、産みの苦しみなのかもしれませんが、英語が得意でない私にとっては、「全て英語化」というよりは「日本語」で発表できるセッションもあったほうがいいのではないかと思っています。間違いなくその方が深いディスカッションや、手術手技の微妙な感覚を質問したり、説明したりしやすくなるのではないかと思っています。
 以前書いた記憶もありますが、藤原正彦さんが「祖国とは国語」という書の中で、英語第二公用語論に反論をされていて、我が意を得たりと思ったことがあります。英語の重要性は十分に認識をしていますが、英語教育を小学1年から始めても全ての人が英語を堪能に使う事はできないし、ましてそれ以上の時間を英語教育に費やせば他の教科の学習が不十分となり、それこそ大きな問題が起こることは間違いありません。藤原さんはそんなことになったら国民の知的衰退を確実に助長するとさえ言っておられます。つまり、祖国(この国)を祖国たらしめる文化や伝統、情緒等のかなりの部分が国語の中に凝縮されていると言われています。
 他の学会がどうなっているのかは知りませんが、少なくとも私の知る外科系の学会で「完全英語化」の学会は他にありません。さて、この先どうなっていくのでしょうか?

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No179 わけあり記者と「魂の書」のお母さん

2019年5月31日

 いつ頃だったか、NHKのニュース番組で中日新聞社の三浦耕喜記者を取り上げていました。「わけあり記者」とは三浦さん自身が自分のことをそのように言っているのです。
 三浦さんはもともと中日新聞の政治部に属しておられて、ドイツ特派員なども経験された方のようですが、番組は社内の廊下の壁を支えにして、やや跛行(はこう)気味に歩いている三浦さんの映像から始まりました。この跛行こそが「わけあり」と彼が言う所以(ゆえん)なのです。
 三浦さんは東日本大震災の時の激務、過労もあり、その後うつ病を発症され、半年間の闘病のあと復職されましたが、ご両親が要介護の状態となり、「ダブル介護」をされていました。新聞社内での配属も政治部から生活部に配置転換となりましたが、三浦さんの「わけあり」には続きがあり、ご両親の介護をされているさなかに自分自身が「パーキンソン病」を発病されました。会話は遅くなり、取材時のメモ書きのスピードも極端に低下し、指、手、足などの筋力低下も起こり、パソコンの入力にも苦労をされているほどです。しかし、「わけあり」にならなければ「わからないこと」が多くあり、「わけあり」の人こそさまざまな情報発信をして、「わかるように」してほしいと言っておられました。三浦さんが取材を進めている人に、ホームページなどの作成を請け負う会社を19歳で立ち上げられた方がいました。この方は「筋萎縮性側索硬化症」という難病で全くの寝たきりです。その姿も映像で流れました。三浦さんや、この若い難病の人等、世の中にはわけありで頑張っている人が多くおられます。考えないわけにはいきません。
 魂の書のお母さんとは書道家の金澤泰子さんのことです。金澤さんの娘さんが金澤翔子さんといわれる方で、この翔子さんがダウン症なのです。翔子さんは優しく穏やかな性格で、いくら成績が悪くても落ち込むことがないし、他の子どもたちも翔子さんがいたら自分がビリになることがないので、大の人気者だったようです。ところが小学校4年生になる時、普通学級に行くことができなくなったので、お母さんは自分で翔子さんの教育に関わるようになり、「般若心経」を毎日毎日書かせたそうです。この頃書いた「般若心経」には翔子さんの涙の跡が今でも残っているそうですが、この翔子さんも書道家になり、翔子さんの書を見ると多くの人たちは涙を流し、彼女の書は「魂の書」と呼ばれているそうです。ある頃からお母さんは、翔子さん自身は自分がダウン症であることをなんとも思っていないことや、娘がダウン症であることに苦しんでいたのは自分自身であったことに気付きます。たしかに言語障害があったり、数列に弱かったりしますが、違う知性や知能がちゃんと育っているのです。2015年、翔子さんは30歳の時に国際連合で他の国のダウン症の代表の人たちに交じり演説をされたそうです。他の国の人は先生や親が付き添っていたのですが、翔子さんは1人で演説をされました。お母さんは涙が止まらなかったそうです。お母さんは翔子さんがダウン症であると告知をされた日から日記をつけておられます。最初のページには、「今日、私は世界で一番悲しい母親だろう」と記されたそうですが、30年経って、翔子さんが国連で演説する姿を見て、「翔子、お母さまは今、世界一、幸せだよ」と言われたそうです。
 翔子さんも「わけあり」です。三浦さんも翔子さんも人の心の扉を叩いてくれる人です。私などよりずっと若い人たちですが、頑張らなければ、という思いにさせてくれる素晴らしい人たちだと思います。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No178 忖度(そんたく)

2019年4月24日

 2017年の流行語大賞の一つに「忖度」が選ばれました。「モリカケ問題」が騒がれた年です。あれから一年以上経過しましたが、まだ「モリカケ問題」は完全には解決しておらず、「忖度」という言葉はもちろんのこと、それらしい感じを与えることさえご法度だと思うこの時期に、またまた下関と門司の間の橋だかトンネルだかを巡って「忖度」が出てきました。しかもその人は堂々と「私が忖度をしました」と口に出したのです。しかも、その人とは国会議員です。考えられません。国会議員ともなれば、われわれ一般人以上に良識があると思うのですが、どうなのでしょうか。
 そもそも「忖度」という言葉はずいぶん古い中国の言葉で、日本でも1,000年以上前から使われていた言葉のようです。ただこれまでは単純に「相手の心を推測する」という意味に使われていたものが、この10数年の間に「上役などの意向を推し量る」という意味で使われだしたようです。つまり、日本語の劣化と言うか、日本人の魂の劣化に伴って、本来の精神世界の意味から「モノの世界・欲の世界・ごますりの世界」の言葉に変わってしまったということです。情けないことです。
 さて、医療の世界に「今風の忖度」はあるのでしょうか?VIPの患者さんであれば「忖度」をして、受け付けの時間は遅くても何人も飛ばして早く診察するとか、検査を早く行うとか、ありそうには思えますが、そのようなことはありません。診察の順番をやむをえず変えないといけないとか、収容する病室が個室でなければいけないとかは、患者さんがいわゆるVIPかどうかではなく、患者さんの病状が急を要する状態かどうか、あるいは個室でなければ診療するのが難しいかどうかによります。病院ではしばしば、「私よりも後で受け付けた人の方が先に診察に呼ばれた。おかしいのではないか」というような投書がありますが、それは「後で受け付けた人の方が急病で手術が必要かもしれないケース」や「たまたま検査結果が早く出たケース」などだと思います。また、患者さんは「重病ではないこと」を誰しも望んでいると思いますが、そのことを「忖度」して、重病の患者さんに「大丈夫です。重病ではありません」などと話をすることもありません。優しい言葉をかけてあげたいと思っても、現実では厳しい結果を伝えなければならないことなどしばしばあります。「忖度」をしても病気は逃げてはくれないし、病状が好転したりすることはないのです。
 そもそも誰に対しても「相手の心を思いやり、できる限り気持ちに寄り添う対応をする」ことを心掛けていればいいのであって、みんながそのように対応すれば、「忖度」と言う言葉はいずれ消えてなくなると思います。やはり、「打算」が働くとロクなことにはなりません。何があるか分からない近道を歩くより、いくら回り道をしても安全な道を歩きたいと思っています。バカ正直という言葉もあり、正直だけで世の中を渡れば「Happy」な人生が送れるかどうかは分かりませんが、打算や損得だけの人生では美しい景色が見られないのではないでしょうか。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No177 平成の30年

2019年4月3日

 4月1日に新しい元号が発表されました。新しい元号は「令和」、出典は万葉集で、「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味を込めたそうです。いよいよ平成もあと1ヵ月を残すのみとなりました。
 私は30年前の1月7日に当時の小渕官房長官が「平成」と書かれた額を掲げられ、「新しい元号は平成であります」と言われた場面をよく覚えています。このたびの天皇退位が決まってからも、このシーンはしばしばメディアで目にしましたが、生まれて以来、元号は昭和しか知らなかったので、「平成」の二文字は新鮮に思えました。
 そして始まった平成、皆さまにはどのような時代だったでしょうか。いろいろな角度から「平成時代」を考える文章やTV番組をここのところ目にしましたが、確かにさまざまな災害、事件が多かったように思います。何と言っても大きな地震が幾度も起こりました。なかでも平成7年の阪神淡路大震災、平成23年の東日本大震災では多くの人が犠牲になりました。原発事故の解決まではまだまだ長く時間がかかるようです。また近年の異常気象による豪雨災害も珍しくなくなってきた感じすらしています。その他、平成7年には、本当に日本で起こっていることなのかと、とても信じられない地下鉄サリン事件が起こりました。海外ではニューヨークの世界貿易センタービルへの飛行機突入テロも平成13年の事件でした。ライブの映像を見ましたが、最初は映画かと思いました。さまざまな格差・差別が深刻となり、人類の寛容な心が変質して、想像すら超える世界に入っているようにも感じています。
 天皇陛下は平成の30年を振り返られ、「初めて戦争を経験せぬ時代を持ったが、災害が多い時代であった。しかし、その中でも懸命に耐えぬいている被災者、またさまざまな形で被災者に寄り添う国民の姿は忘れ難い」と述べておられました。また、天皇、皇后は先の戦争の多くの激戦地への慰霊の旅も続けておられました。私にはお二人にとっての平成は、昭和の時代の代償を全身に背負われておられた30年だったように思えます。退位をされた後はこれからの人生を十分に楽しんでいただきたいと心から願っています。
 私の平成は外科医として独り立ちをし始めた頃から始まりましたが、まだまだ手術も未熟で術後管理の技術・知識も不十分であったように思います。そして数年経つ頃から外科医になりたての若い医師の指導を行うようになり、教育の楽しさを覚えました。短い間、大学での勤務も経験しましたがほぼ市中病院での勤務を行い、考えてみれば平成の殆どの期間は単身赴任生活を続けていました。そして現在は臨床からほぼ引退し、病院事業管理者としての職務を遂行しています。意識をしないうちに子どもたちも独立し、私の平成は、大きな「災」もなく幕を下ろしそうな感じです。
 私の勤務している病院は、1977年(昭和52年)に開設しました。平成元年4月1日は300床、15診療科、医師数27人の病院でしたが、30年の間に506床、28診療科と規模も大きくなり、医師数も150人を超えました。医療も大きな変貌を遂げようとしています。一つの医療機関で治療を完結(病院完結)するのではなく、それぞれの病院が医療機能を分化させ、またお互いが連携をして、地域全体で患者さんを治療・ケアする「地域完結型」の医療へと変わってきています。
 また、医療と介護、医療施設と療養施設も一体で、さらに言えば自宅のベッドさえも医療資源、病床と捉えられるということです。高齢者が増加し、見守る家族も近くにいない、これはもう地域で支えあうしかないと思います。
 そしていよいよ5月から新しい令和の時代が始まります。どのような時代になるのでしょうか。医療の世界もいろいろな領域で人工知能(AI)が活躍するようになると思われます。現在は医師不足の地域であっても、それなりに満足できる医療が提供できる時代が来るかもしれません。この先の時代を楽しみに、もう少し頑張ってみたいと思っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚


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