本文
管理者室より 2018年度
No176 三月は去る
2019年3月15日
「一月は往ぬる、二月は逃げる、そして三月は去る」と、この国では言われていますが、正月から三月にかけてはさまざまな行事もあり、あっという間に済んでしまうのでそのように言うそうです。確かにそうは思いますが、私は、いつの頃からかこの時期に限らず、いつの時期でもあっという間に過ぎてしまうように感じています。たぶん、私に限らず、ある程度年齢を重ねた人の多くがそう感じていると思います。昨年、NHKの「ちこちゃんに叱られる」の中で、子どもと大人の過ぎた時間の感じ方が違うのは、「大人になると、ときめきが少なくなるのであっという間に時間が過ぎる」と感じるのだと、ちこちゃんが言っていたようですが、一月、二月、三月は子どもにとってもお正月、始業式、節分、お雛さま、終業式、卒業式と、結構ときめきのある行事も多く、果たして、この時期の時間の流れを子どもたちは、早いと感じるのか長く感じるのかどちらでしょうか、ちこちゃんに答えてもらいたいなと思います。もっとも、この大人と子どもの時間の感じ方に違いがあるのはなぜか、については諸説があるようで、以前、このコーナーにも書いたこともありますが、5歳の子どもの一年は自分の人生の五分の一であり、いっぽう50歳の大人の一年は五十分の一で子どもに比べて随分短く、だから同じ一年でも短く感じるのだ、という説もあるようです。
時間の進み方の話はここまでで、私は三月という月はどうしても別れをイメージしてしまい、以前からあまり好きではありません。保育園や小学校を卒業する時はほぼすべての友達がそのまま進学するのでさびしさなどは全くありませんでしたが、中学を卒業する時は同じ高校に進学する人も少なくなり、卒業式では「仰げば尊し」を歌いながらこっそり涙を流していました。高校や大学の卒業式はさびしさよりも次のステージへの期待が大きかったり、友人にはまた会えるという思いのほうが強く、それほど感傷的にはなりませんでした。社会人になってからでしょうか、転勤は必ずしも3月末ではなかったのですが、いつの時期の転勤も「去りがたい想い」を持ちながらの、つらい転勤でした。
社会人になってからの46年間で、私は8回勤務先が変わりました。もっとも短かったのは1977年7月から1979年8月までの当院での勤務でした。たった2年間だったとはいえ、消化器外科ざんまいの外科研修で、多くの患者さんの担当医となり上級医の手術に触れ、同じ外科研修医と切磋琢磨し、今の私を形作った極めて濃厚な2年間でした。忘れられない患者さんも多く、今でも年賀状のやり取りを続けている方もおられます。また、私自身結核にかかり、研修の最後の約半年間は患者さんを担当することが出来ず、外来と麻酔当番をしていました。まだまだ学ぶことも多く、何とかもう1年、研修を続けたかったのですが、大学から帰局命令があり退職せざるを得ませんでした。岡山への引っ越しは後ろ髪をひかれながらの引っ越しでした。後年の庄原から福山への引っ越しもそうでした。庄原には私が手術を行った患者さんが多くおられ、その人たちを残して転勤をするときには、「本当にこれでいいのか」と何度も思いました。一緒に働いた医師や看護師さん、検査技師さん、よく紹介していただいた開業医の先生たち、みんなに別れを言うときには涙がこぼれてきました。それでもこの涙や想いが自分自身を成長させてくれたのだろうと今は思えています。そう思えば、辛い別れもあっていいのかもしれません。
三月の次は四月がやってきます。四月は希望の月だと思っています。新たな出会いも多くあります。今年も病院には多くのフレッシュな人たちがやってきます。それを楽しみに、三月いっぱいで去っていかれる仲間を送りたいと思っています。
福山市 病院事業管理者 高倉範尚
No175 最終講義
2019年3月1日
大学の教授が退官をされる際の最後の講義を最終講義と言います。普通の講義は学生が対象ですが、最終講義は学生だけではなく、現在の医局員、かつて指導を受けた人たち、親交のある他科の先生たちなど、多くの人が聴講に来られるようです。
昨年の三月、Netのある記事に目が止まりました。見出しに「人格を磨き、社会に貢献する外科医育成を目指した」とありました。もちろん高名な教授なので私も知っていますが、Q大のM教授が最終講義の際に話された言葉のようでした。小見出しには「約15年の間に26人の教授を輩出」とありました。私の許にもM教授の教室の業績集が年に一度送られてきますが、内容は英文誌への1年間の投稿論文のReprintで、ページ数にして1000ページを超えています。和文論文はありません。なるほど、これだけのVolumeが教授を輩出させるのだと感じていました。
それはさておき、外科医の育成です。Q大のM教授の教室の教室訓は「一に人格、二に学問」だそうです。これは十分頷けます。ただ、この人格というもの、いつ頃形成されるのでしょうか?普通、医師になるのは24歳以降です。そのあとの教育・指導で人格が形成されることがあるのでしょうか?大体その頃には人格はすでに形成されていて、現在の考えでは、人格形成の半分は遺伝子の直接・間接的影響で生じ、残りの半分は10代半ば頃にその人が置かれている相対的な社会的地位によって、人格の一部が決まるそうです。親の子育てや家庭環境とは関係がないそうです。ただ、親の子育てや家庭環境が、子どもの相対的な社会的地位を決めることもあるわけで、子育てや環境は関係ないとは言えないと私は思います。いずれにしても大学を卒業する頃には人格を形成しようにもほぼ出来上がっているわけで、外科医になってから人格を形成することは難しいということでしょう。以前から外科はハードワークですし、チームで治療をする診療科であることはだれでも分かりますから、人と付き合うことが苦手な人やきつい仕事が苦手な人は最初から志望しないと思います。したがって、もともと人格的に「いいヤツ」を「もっといいヤツ」にすることは一緒に手術をした後、お酒を片手にいろいろ「外科医はなあ~」などと話をしていれば多分大丈夫だと思います。「二に学問」の学問をさせるのは難しいです。眼の前の課題を克服するために学問をするのは難しくはありませんが、英文に限らず和文であっても論文を若い人に書いてもらうのは結構大変で、まさにここが上級医の指導力だと思います。Netの記事の続きに、医療人の生涯は「人類への奉仕の生涯」、「自分への厳しさが求められる生涯」、「休むことのない生涯」と書いてありましたが、多くの真面目な医師ならだいたいそんな生涯だと思います。
私も大学に在籍当時から医学生や看護学生を相手に講義をしており、20年前に大学を出てからも年に一度ですが、「膵疾患の外科治療」というテーマで講義をしていました。教授には「もう大学の若い先生にバトンタッチしたい」と申し入れていましたが、つい先日教授から「先生、お疲れ様でした。次年度からは教室の若い人に講義をしてもらいます」と告げられました。もちろん、ほっとした気持ちの方が強かったのですが、これが最後、という気持ちで私も最後の講義を終えたかったなと、少しだけ思いました。
福山市 病院事業管理者 高倉範尚
No174 とりえ
2019年2月15日
「自分にはどんなとりえがあるのだろうか」と時に思います。皆さん方はどうでしょうか?私は誰にでもその人にしかない良いところがあると思っていますが、自分のことは分かりません。自分ではこれがとりえだと思っていても、他人から見ると決してとりえではないかもしれません。自分の姿を「この眼でしっかり」と実像として見ることができないのと同じことでしょうか。
私はこれまで多くの外科医を指導してきましたが、別の病院では「彼は難しいね」とか、「ダメだね」などと言われていた人でも、実際に一緒に仕事をしてみると素晴らしいところはいくらでもあります。そんな時にはたいてい、前の病院の人たちの目は少し節穴か、厳しすぎるのか、あるいは、前の病院では「どうにもならんよ」と言われていた人を「いやいや素晴らしいところもある」と思う自分が余程人を見る目がないのか、どちらかだなと思っています。確かに人の能力には学問とか、スポーツ、芸術などさまざまな分野で差があるのは事実で、医師としての能力も、医師として持つべき技術や知識、心などに人により差があるのは事実です。むしろ、臨床の力や学会発表とか論文作成などの学術的な力、人間的な優しさなどの人間力など、これらすべての領域で抜群の人はどちらかと言えばごく少数かもしれません。私は、例えば医師として大切なことは、自分の力を知ることであって、力以上のことを無理に行おうとはせず、できる人にそこは任せて、安全第一の医療を考え行うことだと思っています。みんながスーパースターにはなれないし、ならなくてもいいのです。外科医の誰もがキャリアの最後まで外科医としての寿命を全うするわけではありません。高難度の手術を誰もができるわけでもないし、そのような手術ができる病院には限りがあります。外科には大手術ばかりではなく小手術もあり、ニーズは同じです。大切なことは「多くの外科領域のある部分を任せられる人を作ること」や「己を知る医師を育てること」、「人に優しい外科医を育成すること」だと思っています。
私は若い人を見るときは必ずその長所を見つけようと思いながら接しています。そして育てるために我慢もします。しかし、この我慢はどうにもならない我慢ではなく、その人の成長を見ることもできるのでつらくない我慢、楽しい我慢です。若い人が指導者に向かって「いや、先生、僕はそう思いません」と、自分の意見が言えるようになるのを見るのは指導者としてはうれしいものです。そして、経験論から言えば、やはり人を育てるには時に叱り、よく褒めるのが一番だと思っています。もちろん叱り方も大切で、感情がもろに出た叱り方はすべきではありません。時にノミニケーションも必要で、場外でのface to faceでの会話の内容を、若い人は何年たっても覚えています。
さて、最初に戻って私のとりえです。なにかあるとすれば、「まあまあ正直である」ことでしょうか。もちろん意識してついたウソが子どもの頃から一度もないわけではありませんが、やはりそれは心が苦しくなるものです。正直で真っ直ぐ、これからもそれで行きたいと考えています。
福山市 病院事業管理者 高倉範尚
No173 本庶教授
2019年2月1日
昨年は暗い話題の多かったこの国ですが、京都大学の本庶教授が第4のがん治療法(がん免疫療法)を切り拓いたとして、ノーベル生理学医学賞を受賞されたことは数少ない明るい話題であったと思います。
本庶先生が2018年のノーベル生理学医学賞に決まったという知らせは昨年の10月1日の夕刻でした。本庶先生が「オプジーボ」を開発されたことは知っていましたが、ノーベル賞の有力候補者に挙がっているということは知りませんでした。オプジーボは確かに効果的な薬ですが、まだまだ高価で、さまざまながんに対してこの薬の保険適応が広がっていくと、この国の財政がガタガタになるとも思っていました。
さて、その本庶先生です。10月の下旬、岡山市で小児アレルギー学会が開催されましたが、その特別講演で来られたのです。私は小児アレルギー学会の会員でもなく本来は関係ないのですが、学会長のI先生から、「拝聴しませんか」と誘いを受けたので、本庶先生の講演を聴きに行きました。ノーベル賞を受賞された方、される方の講演を聴くことは生まれて初めてのことであり、演題名も「がんを免疫力で治す」という刺激的な題で、前日からやや興奮していたように覚えています。
壇上に上がられた本庶先生ですが、テレビや写真で目にした先生の顔と全く同じでした。とにかく最初から最後まで表情が変わることがなく、冗談も一切言われず、ニコリもなく、古武士のようなするどい雰囲気を漂わせつつ1時間余りの講演を終えられました。先生の趣味はゴルフで、その腕前はシングル(すごくお上手らしいです)と書いてあったのを覚えていますが、ゴルフも自らに厳しく、ナイスショットをしてもニコリともされないのでしょうか。こっそりラウンドを見てみたい気もしました。
私の知っている、以前の「がん免疫療法」は効くのだか効かないのだか分からない、そんな治療法でしたが、本庶先生のグループが開発した「がん免疫療法」は、従来の免疫療法とは発想の異なる「治る免疫療法」のように感じました。しかし、この薬、全てのがんに効果があるわけではなく、同じ臓器のがんでも効果のある人とない人がいます。特に高価な薬剤はそこが問題で、効果が予測される人にだけ投与できればいいのですが。それでも近い将来、ゲノム(遺伝子)解析などを行い、薬が効く人と効かない人の区別のできる日がきっと来ると思っています。ちなみに最近は、一度患者さんの体内に入れたら、がん細胞が身体から無くなるまで攻撃をし続ける、そんな薬もあると別の講演で聴きました。大変な時代に入りかけている予感がしています。
私は外科医ですが、本庶先生は講演の中で、「外科医はリンパ節を取りすぎる」と言われました。私は、「転移の可能性のあるリンパ節は根こそぎ取って、治癒を目指す」、そんな意識でがん手術を行ってきましたが、「がん免疫療法」においては、リンパ節は残しておく方が薬剤の治療効果が上がるようです。もちろん外科医の私は今でもリンパ節は根こそぎ取るもの、と思っていますが、どうなのでしょうか、いつか答えが出るだろうと思います。
最後に、本庶先生は「6つのC」の話をよくされています。仕事をして行く上で大切なものとして、Curiosity(好奇心)、Courage(勇気)、Challenge(挑戦)、Concentration(集中)、Confidence(自信)、Continuation(継続)の6つを挙げておられますが、これについては全く同感です。
福山市 病院事業管理者 高倉範尚
No172 年賀の便り
2019年1月15日
時代はアナログからデジタルへ、年始めの挨拶は年賀状からFacebookやInstagramなどへ、世の中は確かに変わってきています。しかし私は、一年に一度の便りであっても、一言メッセージを添えた年賀状や、家族が集まった写真がある年賀状を見るほうが好きです。私に届く年賀状のうち、小~中学生時代の同級生からの年賀状があります。中には50年以上会っていない人もいます。たとえそうであっても、彼の名前を見ると、小学生の頃の彼のことが頭の中に浮かんで懐かしい気持ちになります。年賀状の中にどこか手書きのところがあると、昔と変わらない字体を見て、「相変わらずコチコチした字を書いてるな」などと独り言を言ったりもしています。私の故郷に今も住む彼が、時間の合間に年賀状を作り、郵便局かポストまで出向き投函して、250Km以上離れた私の家まで郵便局員さんが配達をする、このように人の手が何度も加わることで、温かい年賀状になるのだと思っています。私は本来ならばすべての人に手書きの年賀状を出したいと思っていますが、残念ながら字は下手で、また枚数も多く時間にも余裕がないので手書きの年賀状は書けていません。それでも先輩、後輩、患者さん、友人、親戚などへ出す何通りかの年賀状を作っています。そして気になる人には一言を添えるようにしています。
数年前まではあまりありませんでしたが、最近、「今年を以て年賀の挨拶を欠礼いたします」という年賀状が届くようになりました。「欠礼」にはいろいろな理由があると思いますが、出される人の心情はどうなのだろうか、といつも気にかかります。何十年も当たり前のように続けてきた正月の行事の一つを止めるのは決断がいると思いますが、決して年賀状が届くことを嫌がっておられるのではないと勝手に解釈して、私のほうからは出すようにしています。でもどうなのでしょうか、出すことは失礼には当たらないのでしょうか、少し気にはなります。また、12月になると、「喪中葉書」もよく届くようになりました。私と同世代人の御両親などが亡くなられる年齢になっておられるわけですが、皆さん、寂しい気持ちに負けずに頑張っておられるのだと、喪中葉書を見て自分自身を励ましています。
ちなみに年賀状の発行は1949年(昭和24年)が最初で、この年の発行枚数は1億8000万枚、ピークは2003年(平成15年)の44億5900万枚あまり、その後次第に発行枚数は減っていき、最近は25億枚くらいだそうです。まだまだ多いのですが、そのうちこの国から年賀状をやり取りすることが無くなってしまいそうな気がしています。私は若い頃から、「父が行っていたこと、言っていたことを続けていかなくては」と思っていましたが、私の子どもたちはおそらく「正月」に対する意識は低く、「年賀状のやり取りは行うものだ」とか、「年越しは多少眠くても起きていて新しい年を迎えるものだ」とか、「元日はシャンとした格好をしておくものだ」とかは思っていないようです。皆さんの家庭ではいかがでしょうか。東京のほうでは大通りに人があふれ、喧噪の中で年越しが行われているようですが、私は静寂の中で除夜の鐘を聴きながら行く年と来る年を想うほうが好きです。
平成最後の今年、全ての人にとっていい年であること、また病院にとってもいい年であることを願っています。
福山市 病院事業管理者 高倉範尚
No171 2019年を迎えて
2019年1月4日
皆さん、明けましておめでとうございます。
このコーナーは2011年11月から始めましたが、早いものでもう8回目の新年を迎えました。ただ、昨年の正月には「管理者室より」を閉めていたので、2年ぶりの新年の御挨拶になりますが、お健やかに新年を迎えられたことと存じます。
さて、今年はどのような年になるのでしょうか。新しい年を迎えて、皆さん何かを念じられたでしょうか。私は大きな災害が起こらないこと、病院事業をしっかり遂行できること、私自身や家族が健康に暮らせること、を初詣で神さまにお祈りしました。
また以前は、お正月になると何か成し遂げたいことを決意する、そんなことも行っていましたが、いつの頃からかやらなくなりました。目標を立ててもあっという間に達成不能になり、誕生日にまた発起はするものの、また挫折、そんなことを繰り返していたように思います。そして、歳をとってくると、だいたい出来ることと出来ないことの見極めもそれなりについてきますし、60歳くらいならまだしも70歳にもなると、自分を高めようなどと思わなくなってしまう人のほうが圧倒的に多い気がしています。そんな訳で私もこのところ自分の努力目標はほとんど立てていませんでした。唯一、2~3年前から体重増加予防で始めたウォーキングは現在も続けていますが、これはそれほどハードルが高い目標とは言えず、まずは今年も健康で1年を過ごし、与えられた仕事を全うする、これを大目標にしていきたいと思っています。
さて、新しい年、2019年ですが、今年は4月30日に現天皇陛下の退位、5月1日に新天皇の即位があり、その日から新しい元号となります。元号が新しくなったからといって世の中が急に変わったりはしないと思いますが、新しい時代の始まりを盛り上げようという気運は出てきそうな感じがしています。ただ、10連休は旅行業者、観光地などにとってはいい話と思いますが、患者さんや病院経営にとってどうだろうか、とは思っています。そして、いよいよ10月から消費税が8%から10%に上がります。家計にも当然影響があると思いますが、病院にも大きな影響があります。病院では購入した医療機器、診療材料、薬剤、あるいは業務委託料などの支払いに際しては当然消費税を支払っています。現在の仕組みでは、その支払った消費税分は診療報酬の一部で補てんされていますが、当院で言えば2016年度は病院が支払った消費税の70%しか補てんされていませんでした。金額で言えばおよそ2億円の補てん不足でした。大きな金額です。皆さん、不公平だとは思われませんか。もちろん10月の消費増税にあわせて国は制度設計を少し変えるようですが、主には診療報酬から補てんすることは変わらず、病院はまた「損」をするという構図は変わらないと思っています。なんとかならないでしょうか。
こんな想いをずっと持ちながら、今年も一年などあっという間でしょう。「もう、夏だね」とか「あっという間に一年が終わるね」、こんな言葉を毎年言っています。今年もきっとそうだと思います。そして来年は東京オリンピック、その先は大阪万博、なんだか大きなイベントが続いていますが、遠い先より近い先を、東京・大阪よりここ備後を、人の足元より我が足元を見ながら歩んでいきたいと思いつつ新しい年を迎えました。
今年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
福山市 病院事業管理者 高倉範尚
No170 年の終りに ~2018~
2018年12月14日
2018年も残すところあと僅かになりました。皆さま方にとって2018年はどんな年だったのでしょうか。
国際政治の世界では、相変わらずトランプ大統領が「アメリカファースト」を口にし、多くの国々と衝突しています。そんな中で北朝鮮の金正恩委員長と会談を行ったニュースにはびっくりしました。ついその前まで口汚くののしり合いをしていた当事者同士が笑顔で握手をしている映像を見たときには、「取引のためには何でもするのだ」と驚きました。また、4月でしたか、金委員長が休戦ラインを歩いて越えて文大統領と握手をした映像もそれなりに衝撃でした。その韓国と日本の間では、徴用工問題、和解・癒し財団の解散問題など、両国の関係を揺るがす問題が続いており、解決の糸口が見えていません。
国内の出来事では、今年も大変な災害が起こりました。豪雨災害の原因に地球の温暖化が挙げられるならば、人も関わっているということになります。どう考えられますか?政治では安倍さんが自民党総裁に選任され、首相として後3年間、この国のかじ取りを行うことになりました。最近、来年10月の消費税の引き上げを巡って、景気の落ち込みなどを抑えるために様々な方策が議論されているようです。確かに目先のことに考えが及ぶのは人である以上仕方がないことかもしれませんが、根幹は子や孫に借金を負わさないこと、将来への投資であることを忘れてはいけないと思っています。
今年に限らず、最近この国で耳にするニュースはなぜかずいぶん品位が下がっているように感じます。今年もその額を聞けばなるほど巨額ですが、実はみみっちいトップの給与の不正記載、家族への会社による便宜供与。このようなことを行えば会社が潰れてしまうかもしれないようなデータ改ざん。実にやっていることが情けなく、いったいこの国の品格はどこへ行ったのでしょうか。そんな中で、京大の本庶教授がノーベル医学生理学賞を受賞されたのはうれしいニュースで、少しだけ日本人の誇りを感じました。
病院のほうですが、今年は私がこの病院に赴任してきた2009年以降、初めて年度初めの医師総数が前年度を下回るという厳しい年でしたが、職員の努力で病院事業は比較的順調に遂行できました。4月以降の平均在院日数は9.6日と、10日を切っており、いっそう忙しくなっています。患者さんと接する時間が短くなる中で、どのようにして信頼関係を作っていくか、医療者の努力・工夫が必要だと思います。また、国では「上手な医療のかかり方を広めるための懇談会」を開いて、患者さんサイドへの啓蒙も進めています。医療者の働き方を変えていくには、患者さんの医療機関へのかかり方、医療者への接し方も変えていかなくてはいけません。知恵をしぼりましょう。
私自身の2018年を振り返ると、寝込んでしまうようなこともなく、元気に1年を過ごすことができました。病院事業は厳しい状況であることは間違いありませんが、正しい道を歩んでいると思っています。「私」の部分では、子どもたちが全て家庭を持ち自立しました。いわゆる親の責任を果たしたわけで、これからは子どもや孫たちがそれぞれの責任を果たしてくれるだろうと思っています。
最後に、平成という元号、来年5月から新しい元号に変わりますが、元号は変わっても時の流れや日常は変わることなくきっと続いていきます。そしていつか、私が子どもであった頃のように、幸せや希望を実感でき、日常にわくわく感があった、そんな時代がまた来ることを念願しています。
福山市 病院事業管理者 高倉範尚
No169 大原さんのもの語り
2018年12月1日
倉敷の大原美術館と言えば、多くの人が訪れたことのある美術館だと思います。私も以前、倉敷市内の病院に勤務していたこともあり、幾度か訪れました。最近、その大原美術館の名誉館長をされている大原謙一郎氏の講演を聴く機会がありました。果たしてこの方の本職はなんであるのか、文化をたしなむ人とはこういう人を言うのだ、と感じました。
講演のタイトルは「世界と文化とあきんど道」というものでしたが、世界の中で日本が輝くには何が大切か、どうするのがよいか、この国の進むべき道標はなにか、などについて、約1時間半ほどだったでしょうか、語られました。その語り口は穏やかで、いきなり切りこむのではなく、私などはほとんど知らない北陸の小さな市町の文化やそれを守っておられる人々の話から始められ、どの村、どの町にも歴史や文化があり、イタリアを例に、世界一流の文化や歴史を持つ田舎が多くあることがその国の価値を高めると話をされました。さらに、倉敷の豪商、大原家のルーツをたどり、あきんどの道、すなわち「売り手よし、買い手よし、世間よし」を説き、武士道との対比や国の指導理念の話になったり、大原さんのおじいさんである大原孫三郎氏の社会奉仕の理念、倉敷中央病院設立の話をされたり、あっという間の1時間半でした。
私は医師なので同業の方々の話を聴く機会は多くありますが、医師の講演や、厚労省のお役人などの講演内容と大原さんの講演内容は全く異質ですし、語り口も異質です。このコーナーでも以前書きましたように(No 149,No 154)、医療と関係のない話を聴くこともありますが、これまで聴いたそれらとも語り口が違います。No149の佐和隆光さん、No154の藤原正彦さんはどちらも言ってみれば学者であり、話は熱いです。大原さんには熱さは感じませんが、聴く人にうなずかせながらゆっくりと、静かに入ってくるような感じでしょうか、うまく表現できませんが、小学校の低学年の授業で、先生が子どもたちに話をするような感じに近いかもしれません。
私がときどき眼にする文章に、裏千家家元の千宗室氏の「京都の路地(みやこのこみち)まわり道」という短文があります。ある日ある一瞬の京都の路地の「さま」の、色や形、匂いや音などを切り取って、見事に書かれています。いや、絵ではないですが、描かれています、と言った方がいいかもしれません。大原さんと同じかどうかは分かりませんが、千さんの文章にも同じような感覚を覚えています。きっとお二人は実際の語り口も似ているのではないでしょうか。
大原さんの話を聴いた後にも、千さんの文章を読んだ後にも気持ちの良さが残ります。なるほど、大原さんの展示された美術館の作品の配置の案配や千さんの点てられたお茶、きっと気持ちがいいのではないかと思います。千さんのお茶はいただけませんが、大原美術館なら行くことは可能です。今行けば昔と変わった想いを感じるかもしれません。
文化のかけらもない私がこのような文章を書くのもどうかと思いましたが、いい話を聴かせていただいたので書かせていただきました。大原謙一郎氏は「倉敷からはこう見えるー世界と地方と文化について」を、千宗室氏は「京都の路地 まわり道」を著しておられますが、大原さんの書籍はアマゾンでは在庫切れでした。
福山市 病院事業管理者 高倉範尚
No168 人の味
2018年11月16日
9月のある日、シルバー川柳の入選作品が新聞に出ているのを目にしました。このシルバー川柳は有料老人ホーム協会が募集をしているもので、入居者の投票によって入選作が選出されるそうです。
「デイサービス お迎えですは やめてくれ」、「うまかった 何を食べたか 忘れたが」、いかがですか、今年の入選作です。作者の多くは60歳代から70歳代の方で最高齢は85歳の方でした。私は以前から川柳の機微(きび)が好きです。私自身、年齢的には「ものす(詠むこと)」ことができる年齢にもなっていて、それなりの人生経験もあるし、国語力も子どもの頃は平均以上だったけど、なんて思っていますが、選ばれている川柳はどれも素晴らしく、私などそのかけらさえ思いつきません。このような川柳を詠まれる人はどんな人なのでしょうか、すごく興味があります。おそらく若い時から周囲を和ませ、周りに笑いが絶えないような人ではないかと思うのですが、どうでしょうか?それなりに人生経験を積んでから味が出てくるのでしょうか。
川柳と言うのはどうも江戸時代から始まったようで、ルーツは俳句と同じでどちらも五七五、俳句には季語などの約束事がありますが、川柳には約束事はありません。平たく言えば俳句は自然が対象、川柳は人事(ひとごと)が対象であるということでしょうか。このシルバー川柳は今年が18回目だったそうですが、何回か前の作品に「アーンして むかしラブラブ いま介護」とか、「年上が タイプだけれど もういない」、「絵手紙で いい味出してる 震える手」などという素晴らしい作品もあったようです。
病院では安全週間などに標語を募集します。私も何か考えて応募をしようとは思うのですが、全く思いつきません。そういえば小学生の頃に交通安全の標語などを考えたこともありますが、佳作にも選ばれたことはありませんでした。要は、短い言葉で端的に意を表現することが不得意なのだと思います。標語などを上手に作ることができるのも才能で、国語の才能とはまた違うのかもしれません。そんな気がしています。
さて、人の味です。若い頃はさして面白くもなかった人が、年月をおいて会ってみるとずいぶん話も面白くまた話題も豊富で、驚くことがあります。学校で先生に何かを問われても恥ずかしいのか分からないのか何もしゃべることができなかった子どもが、成人してから自分の仕事を誇らしく説明したり友達の輪の中心になったりしていることもあります。30年、40年、いや50年を超える、人それぞれの歴史が人を変えるのでしょう。実に面白いと思います。一つや二つではない人生の出来事、人との出会い、別れ、苦労など、生きてきた中で経験したさまざまな事象が人生の味を作るのでしょうか。私などいまだに味などついていません。まだまだ俗人としか言えないように思います。解脱のレベルに達して初めていい味が出せるようになるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。私の名前をシルバー川柳で見かけたら、やっと解脱したかと思ってください。
福山市 病院事業管理者 高倉範尚
No167 小医か中医か、それとも大医か
2018年11月5日
「小医」、「中医」、「大医」という言葉があります。普段あまり聞く言葉ではないと思いますが、皆さんはご存じでしょうか?
今年のNHKの大河ドラマは「西郷(せご)どん」ですが、その中に橋本左内が描かれていました。橋本左内は福井藩の家臣で、極めて優秀な人であったそうですが、もとは大阪の緒方洪庵の適塾などで学んだ医師で、幕末の世に身を置くうちに、医師を辞め、やがて藩主の松平春嶽の側近に登用され、同じように薩摩藩主の島津斉彬に重用されていた西郷隆盛などと交わるようになりました。幕末の激動の時代、多くの若者が志半ばで命を失いましたが、橋本左内も安政の大獄で捕えられ、25歳の若さで処刑されました。この橋本左内が医師を辞めることを決心した時の言葉が、「僕は大医になる」という言葉だったそうです。残念ながら左内は明治の世を迎えることなく亡くなりましたが、彼の思いを受け継いだ人は多くいて、新しい時代を創っていったのでしょうから、「大医」と言ってもいいように思います。
この「小医」、「中医」、「大医」ですが、「小医は病を癒し、中医は人を癒し、大医は国を癒す」という意味だそうです。現代に置き換えれば、医師免許を持ちながら、志を持ち、国を憂い、国会議員となった人が「大医」になるのでしょうか。現在の国会議員の中にも正確な数は知りませんが、医師免許を持っておられる方々が何人もおられます。果たして議員の方々、「大医」として国を癒していただいているのでしょうか。是非に、とお願いするしかありません。
さて、医師歴45年の私は「何医」でしょうか。上の定義で言えば「中医」を目指したいのですが、とても「人を癒してきた」とは言えません。では「病は癒したか」と言えば、「癒したことはある」とは言えますが、とても「すべてを癒した」とは言えず、つまるところ「小医」であるとも胸を張って言えません。困ったものです。ほぼすべての医師は患者さんに相対する場合、患者さんの病気よりも先ずは「人を視る」と思います。身体の表面にできた「出来モノ」や「キズ」なら見れば分かりますが、多くの病気は身体の表面からは見えません。まず、患者さんを視て話し、声のトーンや受け答えの様子、表情、仕草などから、病気に関する情報だけでなく、患者さんの性格、人となりを知ろうとします。どこまでのことが分かるのかについては、患者さんがどれだけ応えてくれるのかとか、患者さんの性格にもよりますし、医師それぞれの聞きだす能力、感じる能力にもよると思っています。知る情報は多ければ多いほうが一般的にはいいと思います。私はこれらの情報が多いほど、人を癒すこともできるのではないかと感じています。実際、どんな人かわからない人を癒すことは難しい気がします。
近い将来、人工知能(AI)が医療の世界にもどんどん入ってくると思っていますが、人工知能は果たしてどんな医師になるのでしょうか?もちろん、人工知能が最後の治療選択をすることはないと思いますが、診断の確かさ、手術プランなどはほぼ間違いがないかもしれませんし、患者さんの情報もいっぱい詰め込めば、患者さんの最も大きな悲しみや悩み、不安に対しても最善の解決策を考えてくれそうな気もしています。
福山市 病院事業管理者 高倉範尚
No166 1年目の悔悟
2018年10月15日
ちょうど1年ほど前、優秀な後輩が逝きました。知らせのメールが金曜の夕方、18時頃に職場のパソコンに入っていましたが、それをチェックすることなく帰宅していました。私のパソコンであれば毎日朝夕チェックするのに。
彼は、1998年頃、私が国立F病院から大学に帰り仕事をしていた時、一緒に仕事をした後輩で、的確な診断力と外科技術を持ち、さらに学術活動も活発に行っていました。彼は私が広島の病院へ出るのと相前後してK医療センターへ赴任しましたが、その後も精力的に活動を続け、K医療センターの肝胆膵外科を国内有数の高難度手術修練施設としました。
2015年の11月、彼から携帯に電話がありました。「先生、がんになりました。肺にメタ(転移)もあるようです。どうしたらいいでしょうか?」と。彼は肝胆膵外科医でありましたが消化器がんの知識も私よりはあるはずで、「私に聞いてもいい答えは出ないのに、なぜ?」とまず思いました。次に思ったことは、「まだ若いのに、よりによってメタまであるのか。何とかしないといけない」ということでした。画像での進展度、手術方法の選択希望など、必要な情報を聞き、私が知る範囲では最高の診断能力と手術技能を持つK先輩に治療戦略を立ててもらうのがいいと思い、ちょうどK先輩が当日彼の住む地に行かれているのを知っていたので、K先輩に連絡を取り、その日のうちに彼はK先輩に会い、画像も見てもらい、治療計画を立てることが出来ました。
手術して2,3日経った頃、彼が入院している病院に見舞いに行くと、彼は元気に「化学療法も頑張ります。肺の手術も頑張ります」と明るく語ってくれました。最初の手術後、彼は化学療法を続けながら時間にせかされているかのように、また、頭の中に雑念が入らぬように、以前にも増して仕事に精を出し、肺切除も予定通り行い、「見た目は取りきれた」状態になりました。
大学での会合や、学会で会うことはありましたが、いつも元気で弱音も吐かず、人なつこい笑顔を浮かべ、その後も聞こえてくるのは「猛烈な仕事ぶり」でした。いつのころか、人づてに再発をした話を聞き、「大丈夫か」と連絡をしたことがありましたが、彼は「大丈夫です、頑張ります」としか答えませんでした。
私は、そんな彼が逝ったことを知らずに、翌日の土曜の夜、友人と会食をしていて、別の後輩からの「S君が亡くなりました。今晩がお通夜で、明日が葬儀です」という電話で初めて知りました。いつかは、と思ってはいましたが、あまりにも突然で、びっくりする以外に何もできませんでした。葬儀の当日は日曜でしたが公用が入っており、彼に「すまない」と詫びながら公務に従事していました。
後日、彼の奥様に手紙を書き、欠礼を詫びました。返信には闘病のさまに加えて、「主人はいつも先生に出会えたから今の自分があると言っていました。先生の手紙を主人にも読んで聞かせました」としたためられており、彼の無念と、そんな後輩の旅立ちを送れなかった自分の愚かさに、涙がこぼれてきました。
ぜひ、いつかまた会いたい。1年経った今も悔悟の思いが強く残っています。
福山市 病院事業管理者 高倉範尚
No165 医心伝心
2018年10月1日
「いしんでんしん」という言葉があります。普通は「以心伝心」と表記します。言葉や文字を使わなくても心と心がお互いに通じ合うという意味で使われます。この言葉はもともと禅宗の語で、仏法の真髄を言葉や文字を使わず、師から弟子に心で伝えることを言うそうです。
当院には、当院での初期研修を目指す医学生向けに、10ページほどの冊子がありますが、その冊子の表題が「医心伝心」です。この「医の心」ですが、古今東西、変わることなく、受け継がれていっているのではないかと思っています。もちろん中には不届きな医師がいるのは事実ですが、多くの医師は自分の利益など考えることもなく、患者さんのために自らの生活も犠牲にして頑張っています。
私は、ドイツのベルリン大学外科のフーフェランド教授の「他人のために生きて、自分のために生きない、これが医業の本体である」という言葉が座右で、この言葉はこれまで私が指導してきた若い医師には必ず紹介しています。当院でも4月に初期研修医が入ってくれば最初の講話で話すことにしていますが、「他人のために生きて、自分のために生きない」という言葉が今の時代、素直に受け入れられるのかどうか、少し難しい気もしています。
この国に現存する最古の医学書を「医心方」というそうです。この「医心方」は平安時代(980年頃)に、中国(隋・唐)や朝鮮の書物をもとに書かれた医学書で著者も分かっています。実はこれにも「医の心」が書かれています。この「医心方」の「医の心」を、Q大のM教授が最終講義で読み上げられたそうです。現代語訳ですが書いてみますので是非読んで下さい。「医師が患者さんの治療にあたる時は、必ず心静かに精神を統一し、何かを欲したり求めたりすることなく、患者さんを慈しみ、いたわる心で、生命あるものを病気から救いたいと念じなければならない。もし病気にかかった者が来て救いを求めるならば、誰にでも同じような態度で、親が子を思うような態度で接しなくてはならない。患者さんの苦悩を見ては、自分の出来事のような気持ちで悲しみ、辺鄙(へんぴ)な場所や嶮しい山中だといって患者さんのもとに行くのを避けてはならない。疲れていても、空腹でのどが乾いていても、一心に赴いて救い、自分の利益や名誉を考えてはならない」、いかがでしょうか。
私は「医心方」のこの心得は知りませんでしたが、読んでみてすっと心に入りました。「私もそうしてきた」と思いました。繰り返しになりますが、多くの医師はそう思っています。多くの医師がこの心でこれまで頑張ってきたからこそ、この国の医療水準は高く、平均寿命も世界のトップにいるのだと思います。
しかし、今でも医療にクレームをつける人や、医療者をリスペクトできない人がいます。朝から症状があるのに放置していて、夜中に病院にやってきて待ち時間が長い!と怒り出す人もいます。
今の若い医師の考え方は以前とは変わりかけていると思う時もあります。患者さんのために一生懸命やっているのに、クレームをつけられてはやってられない、リスクはとらない、アフターファイブは自分の時間だ、など。
これからは医療を受ける人の心構えも問われるべきです。そして、これから先もずっと、「医の心」は失くしてはならない心だと思っています。
福山市 病院事業管理者 高倉範尚
No164 医学部受験と女性差別
2018年9月20日
T医大の入試における不正、いわゆる裏口入学の話、びっくりしました。まじめに受験をした学生はやりきれないと思います。そしてまたあろうことか、T医大では女子学生の入学を制限するような採点が行われていたことも報道されました。二重にびっくりです。文科省は入試における女子差別の有無などについて調査を行い、先ごろ公表しました。それによるとT医大以外の大学は入試不正はしていないと回答しているそうですが、私立大学においては男子学生の合格率が高く、国立(特に地方の)大学は女子の方がやや高い数字が出ていました。果たして事実はどうなのでしょうか。
T医大の言い分は「女性医師は離職率も高く、関連病院などの医師確保を考えると仕方がなかった」ということです。実はこの考え方に同調する意見は相当あり、ある調査によると、T医大の得点操作について、65%の医師が「理解できる」か「ある程度理解できる」で、「あまり理解できない」や「理解できない」の計35%を大きく上回ったそうです。理解できるとした人には、男性医師が深夜12時過ぎまで働いたり、当直の肩代わりなどをしていて現実に男性医師に負担増があり、T医大のやったことは必要悪として気持ちは分かる、とか、現状で女子の離職率や勤務制限があるのは事実で、その分男性医師や未婚女性医師への負担が大きくなっている、などの意見があったようです。皆さんはどのように思われますか。
「適・不適」があるかどうかは別にして、学問や職業に男女差別があってはならないというのが大原則だと私は思っています。したがって、大学入試に男女差別はあってはならないと思います。平等にその門戸は開放されていなくてはなりません。女子の離職者が多いとか、産休・育休で休職するということについては、その数を見込んだ医師の適正数を割り出し、財政的な問題はありますが、医学部の入学定数を増員したり、医師の業務のある部分をシェア出来る職種の育成を行う、などの改革を行うべきだと思っています。
当院でも、女性医師の勤務環境の整備は進めています。院内保育所、雇用制度の改革(正規職員の時短勤務)などがそうですが、医師の数に限りがあるので、当直などについては男性医師や未婚の女性医師への負担が大きくなっているのは事実です。やはり感覚として医師の絶対数がまだ不十分だと思います。一般事務職などの場合は、職員が産休に入ったら、臨時の職員を雇用していますが、医療職を臨時で雇うことは難しく、特に医師は困難です。女性医師が産休・育休に入る際に、医局に代わりの医師派遣を依頼しても、送られてくることはほぼ皆無です。
2,3ヵ月前、同じ圏域の医療機関から、麻酔科の医師不足のために、新生児以外の緊急手術を停止すると、Faxが送られてきました。聞けば、産休に入った女性麻酔科医師の代わりが確保できないから、というのです。このことで当院の緊急手術がさらに増加し、どうしても人手が足りずに患者さんを他の圏域に移送せざるを得ないケースも出てきています。救急に関わる診療科を中心に医師の疲弊も進んでいます。やはり、医師不足は福山市のような中核市においても深刻です。
福山市 病院事業管理者 高倉範尚
No163 休暇は仕事をするため?それとも
2018年9月1日
夏休みも終わってしまいました。子どもたちはいつものように学校に通っているでしょう。ただ、被災地の子どもたちは夏休みどころではなく、お父さんやお母さん、そしてボランティアの人たちと一緒に一生懸命、片づけをしていたことと思います。まだまだ復興半ばで大変な状況にあることが報道されています。本当に一日も早い復興を祈念しています。
私もこの夏の間、しばしの休みをいただき、ふるさとに帰りお墓参りをし、そのあと家族と一緒に時間を過ごしました。ふるさとでは見慣れた風景であったはずなのに、新しい発見もしました。子どもの頃に駆け巡っていた実家近くの山、家から少し離れてなにげなくその山を見ていると、その山のさらに向こうに、もっと高い山があることに気付きました。子どもの頃と目の高さが違うから?などなど、考えているうちにうれしくなりました。やっぱり人はいくつになっても好奇心やワクワク感を持っていなければいけないし、感動をたくさん経験しなければいけないと感じました。
今年の休暇では孫たちと数日一緒に過ごしました。彼らの成長は目を見張るものがあります。正月に会った時にはまだ何を言っているのか分からなかった2歳の孫が、結構生意気な東京弁を話すようになっていました。おそらく思考の過程も進歩しているだろうと想像しています。孫に対しては自分の子どもたちが小さい頃には感じなかった不思議な感覚も覚えています。おそらくお母さんが自分の子どもを思うような感覚でしょうか。父性とは違う感覚だと思います。孫には母性的な愛を感じるのでしょうか。
さて、元に戻って休暇の話です。皆さんは「休むために仕事をしているのか」、「仕事をするために休むのか」、どちらですか。私の恩師のM先生は「休むために仕事をしているのだ」と常々言っておられました。当時の私は、休みであっても病院へ行き患者さんを診ることが当たり前でしたし、むしろ、患者さんを放っておいて子どもたちと一緒に時間を過ごすことは外科医のすることではないと思っていました。もちろん、生来の無趣味で他にすることが無かったのも事実ですが。いずれにしても私は「休むのは仕事をするため」と思っていました。ただ、今はその考えも少しずつ変わってきているかもしれません。大好きであった臨床から離れ、患者さんを診ることが減り、急患だと言って病院から呼び出しを受けることもありません。おそらく他に楽しみがなくなったので、今は週末の休みさえ楽しみにして待つようになっています。コンビニ食ではなく家内の作った料理が食べられる、歩きたいときにいくらでも歩くことが出来る、打ちっぱなしにも用事が無ければ行くことが出来るなど、これまではそれほど楽しみとして認識していなかったことに楽しみを感じられるようになってきています。不思議です。
なににせよ楽しみにして待つ何かがあれば、気持ちよく過ごすことが出来ます。張りを持って仕事をすることも出来ます。次の比較的長い休暇は年末年始ということになるでしょうか、また孫たちに会うことが出来ます。そのためにもしっかりと仕事はしたいと思っていますが、M先生のように「休むために仕事をしている」と言えるまでにはまだ至ってはいません。私の場合、おそらく一生難しいと思いますが、そのうち仕事がなくなって、結局最終答案は出せないまま終わるのではないかと思っています。
福山市 病院事業管理者 高倉範尚
No162 鞆の浦
2018年8月16日
福山市には万葉の頃から歌にも歌われ、潮待ちの港として知られた鞆の浦があります。昔は鞆の津と言われていたそうですが、皆さんは鞆の浦、ご存じですか?私は潮待ちの港、朝鮮通信使の宿泊の港というより、鞆の浦の近くで坂本龍馬のいろは丸が紀州の船と衝突して沈没したということを知っていて、龍馬ファンとしては鞆に行かなきゃと思い、今から40年ほど前、福山に初めて赴任してきたときにバスに乗って訪れたことがあります。そのあとも何回か鞆の浦には行きましたが、いいところです。「福山には何もない」とよく言われますが、そんなことはありません。いろいろあるうちの、今回は鞆の浦の応援をしてみたいと思います。行ったことのない方はぜひ、最後まで読んでみて下さい。
鞆の浦、ブームが起こりそうな予感がしています。鞆の浦には「崖の上のポニョ」の舞台という現代版の物語よりもずっと以前から、港町の歴史や古い建造物、町並みが残っています。2017年に「朝鮮通信使に関わる記憶」で、韓国の市町、瀬戸内の他の市町ともども世界記憶遺産に認定されました。鞆の浦に福禅寺という寺院があり、その一角に対潮楼という建屋があります。この座敷から東側の仙酔島、弁天島を眺めた景観を朝鮮通信使が「日東第一景勝」と名付けましたが間違いなく一見の価値はあります。また鞆の浦は今年、日本遺産にも認定されました。日本遺産とは、歴史的・文化的な一連の物語性を持つ文化財群として、文化庁が認定するもので、これまで67件が認定されていますが、鞆の浦の物語は、耳にしただけで[行ってみたい]と思うような響きです。「瀬戸の夕凪が包む国内随一の近世港町~セピア色の港町に日常が溶け込む鞆の浦~」、いかがですか。常夜燈、雁木、波止、豪商の屋敷や小さな町屋がひしめく町並み、多くの伝統文化、これが鞆の浦です。また、古い建造物、古い家が多く残ることから、鞆の浦は昨年、重要伝統的建造物群保存地区(重伝健)にも選定されました。世界記憶遺産、日本遺産、重伝健、この三点セットを持つ町は鞆の浦しかありません。
福山市は東に岡山市、倉敷市、西に尾道市、広島市があり、これまで観光においては広島市はもとより、都市の規模としてはほぼ同格の倉敷市や、やや小ぶりな尾道市に相当水をあけられていました。倉敷市や尾道市は大原美術館や美観地区、千光寺やしまなみ海道のサイクリングロードなど、誰もがパッと思い浮かべることのできるKey Spotがあります。福山市にも観光資源はありますが、そこへのアクセスにやや難があることが原因なのか、これまで観光客はそれほど多くはなかったのかもしれません。しかし、交通網が発達した現代においては倉敷市や尾道市にしても、一つの町だけで滞在型の観光を発展させることは困難で、福山市はこれらの町と連携を組んで、観光プランや観光商品の組み立てを行うのがいいのではないでしょうか。
最近、福山の街中で外国の人をよく見かけます。実は福山市にはフランス人が多く訪れているようです。フランスの人たちはサイクリングが好きで、しまなみ海道へサイクリングに訪れているようで、この人たちが福山に足を運んでいるのではないか、とのことです。ここから先はSNSなどメディアの力で、鞆の浦の美しい映像を世界に発信してもらえば爆発的な人気も期待できるのではないかとか思っています。そうなると、外国人の道先案内人が必要です。数えきれないほどの三日坊主のなかでも最も多かった外国語の勉強、また始めてみようかしら。
福山市 病院事業管理者 高倉範尚
No161 2018FIFAワールドカップ
2018年7月31日
2018 FIFAワールドカップの戦いがフランスの優勝で幕を閉じましたが、今回のワールドカップは番狂わせが数多く見られました。その中でも最大の番狂わせはランキング1位のドイツがグループリーグで敗退したことだったでしょう。私でも名前を知っている選手が何人かいますし、リーグ戦で何度も番狂わせが起こるはずはないと今でも思うのですが、考えられないようなことが起こりました。なにが原因だったのか分かりませんが、政治の影がちらちらして、「和」が乱れたのでしょうか、なにかしら割り切れないものを感じました。そして、もう一つの奇跡は日本の決勝トーナメント進出ではなかったでしょうか。こんなことを書くと熱狂的なサポーターから怒られそうですが、前評判を大きく覆したという意味では奇跡と言ってもいいのかなと思っています。
日本はご存じの通り、今回のグループの中ではランキングは最下位で、多くの日本人がグループリーグを突破するとは正直なところ思っていなかったのではないでしょうか?とても歯が立たないと思われていたコロンビアに勝利し、セネガルには二度もリードされながら追いついてみせました。最終のポーランド戦での西野監督の采配はいろいろと物議をかもしましたが、なににせよ予選リーグを突破し、決勝トーナメントに進出しました。
実は4年前のリオでのワールドカップのときにも私はこのコーナーに投稿しました。4年前は期待されていたものの1分け2敗、グループリーグで敗退、惨敗でした。もちろん勝敗を分けるものに技術や身体的能力、運などがあると思いますが、選手それぞれの覚悟の違いもあるのではないかと思っています。国を背負う覚悟です。前回大会でブラジルの主将はピッチに入ってくる前に涙を流していました。選手全員が目を赤くして国歌を歌っていました。あのネイマールもそうでした。残念ながら日本の選手に涙を流しながら国歌を歌っている選手はなく、口元を見ていましたが、口の動きも歌っているのかどうか分からないような口の動きでした。しかし、このたびのワールドカップでは日本の選手たちは初戦のコロンビア戦から前回の顔つきとは違っていました。全員が堂々と国歌を大きな声で歌っているように見えました。私は、なにかしらの予感を感じていました。
決勝トーナメントでのベルギーとの試合は次への可能性を感じさせてくれる試合だったと思います。この国は欧米や南米とはサッカーの歴史が違いますし、身体的能力、体幹の強さ、技術力などが違います。しかし、それらの違いも少しずつ解消されてきているように感じます。だいたい他の国の人にできて日本人にできないことなどありません。もちろん、逆も然りですが。本田選手ではないですが、きっといつかこの国はワールドカップで優勝すると思います。
こんなことを言っている私は実はまだ競技場にサッカーの観戦に行ったことがありません。ずっと昔、息子が小学生の頃、サッカー少年団に入っていて一度だけ見に行ったことがあります。まずは、日頃からサッカーを見に行ったりするのでなければサッカー談議などしてはいけませんね。週末に帰る岡山市にはファジアーノ岡山というJ2に属しているクラブがあります。街にサッカークラブがあることとオーケストラがあることが、欧州では街のステータスだと聞いたことがありますが、まずはファジアーノ岡山のサポーターになって岡山を盛り上げることが、ワールドカップ制覇への道でしょうか。
福山市 病院事業管理者 高倉範尚
No160 特別警報
2018年7月13日
まず、7月6日頃から8日、9日にかけての西日本豪雨災害によって亡くなられた方々をはじめ、大きな被害を受けられた皆さまに心からお悔やみ・お見舞いを申し上げます。
7月6日の金曜日、広島県東部でも強い雨が降り続きました。病院での仕事も早く片付いたので、18時前に岡山の自宅に帰ろうと思い福山東インターに行きましたが、インターは閉鎖していました。山陽道で事故があったのだと思い、車を停めて携帯で道路情報を確認すると、「徳山西から備前まで」が通行止めと出ており、かなり長い距離なので、事故ではなくてこの大雨が原因かもしれないとその時初めて思いました。私は金帰月来か土帰月来の生活を何十年もしていて、この日も今日は岡山に帰ろうと朝のうちに決めていたので、山陽道が通行止めになったくらいで帰らないのはおかしい、と自分で勝手に判断をして、下の道(国道2号や農業用の道路)を東に向けて走りました。
当然のことながら、国道は上りも下りも大渋滞、遅々として進まず、何度も引き返そうかと思いました。田んぼの畦は水没し、田んぼと田んぼの境が見えず、一面がため池のような景色も見ました。そんな農道も渋滞です。水位が上がれば車を乗り捨てて逃げなくてはならないなと考えながら運転をしていました。倉敷のやや西から国道が高架になっている所があります。いったん乗ってしまえばなかなか降りられません。歳をとると頻尿になることがあるので、渋滞時にはこのことも考えないといけないと思いました。幸い、新倉敷駅の近くで高架から降りることが出来たので、私は事なきを得ましたが。
結局、岡山の自宅にたどり着いたのは21時を回っていました。70km少しの距離を3時間以上かかったことになります。そして自宅のテレビの字幕で広島県、岡山県、鳥取県に「大雨特別警報」が発令という情報を目にしました。さかんにアナウンサーが「一生に一度、経験するほどの大雨」、「甚大な被害が発生するおそれ」などと放送を繰り返していました。九州から始まった大雨や土砂災害が中国地方、四国地方、近畿、東海など広い地域に及び、7月12日朝の時点で亡くなられた方が178人、安否不明の方が62人と、多くの犠牲者を出す大変な災害になってしまいました。
特別警報とは大雨、暴風、暴風雪、大雪、波浪、高潮などで「数十年に一度」の重大な災害の危険性が高まっているときに、気象庁が発表する最大限の警戒の呼びかけで、特別情報が出たら「ただちに命を守る行動」をとるように気象庁は促しているそうです。あまり、耳にしたことがなかった言葉なので私はこれまで気にしていませんでしたが、今回の被害で十分分かりました。
ちょうど4年前に広島市で大きな土砂災害が起こりました。そのときこの「管理者室より」のNo76に異常気象という文章を載せています。私はこのたびの大雨も異常気象の一つではないかと思っています。この異常気象は自然の現象ですが、それを生み出しているのはおそらく自然ではなくて「人間の営み」によるところが大きいのではないかとも思っています。いったん手に入れた「便利」、「快適」を手放すことはなかなか難しいとは思いますが、そろそろ人類の英知を集めるときかもしれません。私は四季を体験できるこの国は素晴らしい国だと思っていますが、今、何とかしなければ、この国から四季が無くなると思っています。皆さまはどうお考えでしょうか。
福山市 病院事業管理者 高倉範尚
No159 雨降って地固まる
2018年7月1日
中国地方では今年は梅雨に入ってからも雨が少なく、比較的からっとした天気が続いています。とにかく近年は、これまでの気象の常識が通用しなくなってきているのは確かなようです。
「雨降って地固まる」という誰もがよくご存じの諺があります。要は、争いやもめごとなど悪いことがあった後は、かえってよい状態になる、というようなことだと理解しています。夫婦喧嘩をして、その結果理解が深まり、これまでよりいい関係を築いていける、という感じでしょうか。
私が当院に赴任してきて早いもので丸9年が経過し現在10年目を迎えています。赴任してきた当時の病床数は400床でしたが、現在は506床の病院になりました。外来患者さんの数も入院患者さんの数も当時の1.3~1.5倍に増加しています。もちろん医師数も90人から150人へと増加しました。当時から医師数は病床数100床あたり30人を目標にしていたので、やっと目標に達しかけたというところです。しかし、今年の春は少し異変が起こりました。これまでは新年度を迎えた時には、必ず前年度より医師数は増加していましたが、2018年度は数人減となってしまいました。こんなことは初めてのことです。大学医局に属している医師の転勤・留学などによる退職の後、その補充がない、という理由での減員が最も多いのですが、その他、大学医局に属していない医師の退職もありました。ただ、医局に属していても、退職した医師が担当していた診療分野は、そもそも当該大学医局では診療分野ではなく、送りたくても人がいない、という理由もあります。また、人間関係のぎくしゃく感からこれ以上当院で仕事を続ける意欲が無くなったというような理由もありました。いずれにしても一人一人に何らかの理由があります。やむを得ない退職もあれば、もう少し頑張ってもらえなかっただろうかと悔む退職もあります。
私は以前から自分の意思で辞めようと考えている人を無理に引きとめようとは考えていません。どうしようか迷っている、という相談であれば私の考えを彼には話しますが、いい大人が自分で考え決めたことを翻意させようとは思いません。もちろん、私が必要だと考えている人が去っていくのは、私自身の力が至らぬからであって、彼のせいではないことは分かっています。彼が思う存分働ける環境を作ることが出来なかった私に主な原因があります。病院を「あの病院にかかりたい」とか「あの病院で働きたい」と思ってもらえるような「マグネットホスピタル」にしたいとずっと思っていますが、なかなか現実は難しいと感じています。それでもいつの日か「念ずれば通ず」、と今でもしぶとく思っています。またこうも考えています。人には必ず縁があり、縁があればまた一緒に仕事をする機会も来るだろうと。
ともあれ、数人の医師の退職は今年度の当院の運営には少なからず影響が出るかもしれません。しかし、このことによって、職員の「助け合う気持ち」や「絆」が強まり、効率的な時間の使い方や、タスクシェアやタスクシフト、チーム医療が進化していけば、まさに雨降って地固まる、になるのではないかと思っています。いや、必ずそうしなければいけないと思っています。
福山市 病院事業管理者 高倉範尚
No158 カラスの巣
2018年6月15日
少し前の話ですが、「発券機カラス」を捕獲して、それを飼っている年配の女性がいるというニュースをテレビで見ました。このまま駅の発券機でいたずらを繰り返していたら捕獲をされて殺されてしまうかもしれないから、というのが捕獲をして自宅で飼っている理由のようです。しかし、野生の鳥獣を許可なく捕獲したり飼ったりするのは「鳥獣保護法」に違反しているそうで、この結末、どうなったのでしょうか?
ところで、そのカラスですが、この国ではスズメと並んで最もポピュラーな鳥で、童謡でも歌われていますし、私も「七つの子」や「夕焼け小焼け」を歌ったりすると、子どもの頃のことや田舎を思い起こして涙腺が緩むこともあります。しかし、いつの頃からか、スズメや燕には恐怖感は感じませんが、カラスに恐怖を感じるようになりました。まず、身体が大きいこと、目の形も「七つの子」のイラストのようにクリっとしていなくて、わりに切れ長で怜悧な目をしているように思っています。恐怖を感じるようになったきっかけは、おそらくヒッチコック監督の「鳥」だと思います。この映画は1963年の作品ですが、私が初めてこの映画を見たのは「ローニン」の頃で、京都市内の映画館だったように覚えています。
また、カラスは賢いと言われています。それも恐怖を覚える理由の一つかもしれません。カラスの知能は小学1年生くらいのレベルで、数を理解しているカラスもいるそうです。実際、吸い口の細い筒状の容器の中に、カラスがそのままくちばしを突っ込んでも届かないくらいに水を入れて、容器の隣に石ころを置いておくと、自分のくちばしを入れて届くところまでその石ころを何個も容器の中に入れて、水面のレベルをあげ水を飲む動画をYou Tubeで見ることが出来ます。恐るべし!カラスです。また、カラスは記憶力もよくて、自分を捕獲した人の顔を何年も覚えていて、その人を見ると攻撃的な鳴き声をあげるそうです。鳴き声くらいならいいのですが、襲われたりしたら大変です。怖い鳥だと思いませんか。
病院の電力消費量はすさまじいものです。私の勤務している病院は高圧電線を電力会社に引き込んでもらって電気を使っていますが、その電気代は1年間に2億円近くまで達しています。これが救命救急センターを併設し、全身麻酔手術件数が3,500件超、24時間365日フル稼働している500床規模の急性期病院の実態です。この病院に突然電力が供給されなくなったら大変なことです。もちろん、非常用の備えはありますが、現場に大きな混乱が起こると思っています。当院では、さまざまな災害を想定してBCP(Business Continuity Plan:事業継続計画)を策定しましたが、これから訓練などを実施して、とにかく最小限の影響で済ませたいと思っています。
さて、表題のカラスの巣です。当院に引き込んでいる高圧電線上にカラスが巣を作ってしまいました。電力会社から5月の連休のある日、当院への送電を3時間ほど止めて、その間にカラスの巣を撤去したいと申し出がありました。放置していると突然停電が起きたりするそうなので、申し出を受け入れました。当日は、救急は受け入れ停止、そのことを近隣市町の医療機関や消防に連絡をして、各職場の職員の方にも多数出てきて頂いて、停電の間(もちろん非常用電源は確保してあるので生命維持に必要な装置の電源が落ちることはありません)、異常が起きないかどうか見守りなどにあたってもらいました。幸い、大事は起こらず作業は終わりましたが、撤去作業に従事した作業員の人は顔を隠して作業をしたのでしょうか?覚えられていたら大変なことになるかも?と少し怖くなりましたが、その後、カラスが人を襲ったというニュースは耳にしないので大丈夫だったようです。安心しました。
福山市 病院事業管理者 高倉範尚
No157 目に青葉
2018年5月31日
私の病院の部屋の窓は南に面しています。福山には多くの会社・工場群があります。そのせいか、岡山の自宅に車を停めている時よりも福山に置いている時の方が車体に残った雨粒が黒く見えるときが確かにあります。そんな福山でも私の部屋からときどき四国連山も見えます。おそらく新居浜市から今治市の辺りではないかと思っています。四国は島ですが、四国の山々の連なりのさまはなかなかのものです。
そしてもう一つ、病院の南側には毎年仕事始めの日に医療安全祈願でお参りをする蔵王八幡神社があり、周囲はこんもりとした森になっています。東西に長い森でその長さは150メートルくらいでしょうか、八幡神社は森の西側にあり、私の部屋からその切妻の屋根がかろうじて見えます。秋や冬には木々の葉が落ちるのでもう少し神社が見えるのですが、この時期になると見えなくなります。また、その森越しに福山の街も見えるのですが、木々のボリュームが増えることで高さも増すのか、真南の方向は街も見えづらくなります。しかし、森の木々の緑は鮮やかです。ちょうど今、まさに木たちが活き活きとしています。緑も深い緑から淡い緑まで様々で、すべての木が自己主張をしているようです。
病院と森の間には小さな公園があり、病院の職員が患者さんとリハビリ目的で歩いていたり、お昼時間には職員なのか、お見舞いの方々なのか、ベンチに座って昼食を取っておられる人もいます。この公園には桜の木が数本あり、春には病院の花見スポットになっています。そう言えば、サクラが散ったあとの桜の木はスカスカでしたが、今はびっしりと葉がつき、花を咲かせるスペースなどなさそうに見えます。
すこし大袈裟に言えば、私の部屋の窓辺から南西の方を見ると、福山市のダウンタウンが見えます。その方向は街なかの公園なのか、緑の場所がいくらか見えますが、もう少し南方向に目をやると、新幹線の高架と多少のビル、家屋だけで、病院の南の森まで緑は見えません。その緑のないところから病院の緑の森まで目線をゆっくり移動させると、なんと、妙に心が落ち着きホッとするではありませんか。これまで経験したことのない感覚でした。まさかと思い、ネットで「緑色の効果」について調べてみると、「心や身体を癒す・鎮静作用で緊張を緩和する・リラックスの作用がある・穏やかな気持ちを与える」などと書かれていました。そんなことは知らなかったのでちょっとビックリしました。
以前にも書いたことがありますが、実は私はこの季節よりも秋が好きで、この季節にはあまり関心がなかったのですが、もう少し考えながら季節を過ごす気持ちになれば、もっとこの季節の良いところに気づくのではないかと感じました。
最後に、冒頭の「目に青葉」です。江戸時代の俳句の「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」の「目に青葉」ですが、この句は夏を歌った句です。これまでは初鰹だけに関心があり、ぼつぼつ土佐から届くかな?なんてことだけ考えていましたが、これからは青葉も味わって、心身のリフレッシュをしなくてはと思いました。
福山市 病院事業管理者 高倉範尚
No156 1QALY
2018年5月15日
1QALY(1クオリー)、何の事だか分りますか?私は最近知りました。QALYとはQualityーadjusted life year(質調整生存率)のことで、1QALYとは「完全に健康な1年間」に相当し、QALYは費用対効果分析でよく使われるそうです。たとえば、病気で死期が迫っている患者に、ある治療を施すと1年間完全に元気な状態で寿命を延ばすことが出来る(1QALY)としたとき、どの程度のお金であれば支払うか、あるいは社会が負担してもよいか、ということです。いろいろな研究があるようですが、この国で行われた研究によると、社会負担であれば500~600万円、自己負担であれば600~700万円あたりのようです。この額、いかがですか?肺がんで話題になったオプジーボ、これは1年間3000万円ほどの医療費がかかるとされ、その後2017年2月に薬価が半額に引き下げられましたが、同年9月からは胃がんにも適応が拡がりました。この薬、1年間使うのであれば2~3年は元気でいてもらわないと感覚として割に合わないということになります。
皆さんは、自分が病気になったとき、これを使えば1年は元気でいられると言われた時、いくらなら支払いますか?中には「毎年600万円払えば天寿を全うできるのならずっと払うよ」、と言われる人もいると思いますが、それはなしです。あくまでがんが再発転移をして、この先の寿命はもう見えているという人が対象です。
人の命はお金で買えるものではありませんが、ほんの2~3ヵ月の寿命を延ばすのに高額な薬が使われているのは事実です。この「ほんの」という表現は一般論であって、2~3ヵ月が大きな意味を持つ2~3ヵ月のこともあることは十分承知をしています。私は以前も何度か書いたことがありますが、「延命の値段」をタブーにするのではなく、たとえば抗がん剤であれば、どの程度の年齢の方まで、どの程度の進行度の方まで、どの程度の日常生活が送られている方まで(認知症の程度なども含めて)使うのかとか、どれくらいの延命効果があるのならば使うのかなど、議論が行われるべきだと思います。高価な薬剤には保険がきかず、すべて自己負担であるならばそのような議論をする必要はないと思いますが、公金が使われている今のこの国の保険制度においては、避けてはいけないと思っています。
私はたとえば末期がんになったとき、「この薬を使えば1年間元気でいられるよ」と言われても、それが法外な値段であれば、「いいです」と言ってしまいそうです。たぶん、その時に生への執着があるのかどうか、生きる楽しみがあるのかどうかではないでしょうか。たいてい人は、連れ合いに先立たれたり、子どもたちも遠方にいて疎遠になったりすると、「早くお迎えが来てほしい」と言うようになります。私の曾祖母も祖母もしょっちゅう言っていました。彼女たちには今から思うと楽しみも生への執着もなかったのかもしれません。私は、まだ今すぐだとちょっと困るのですが、もう数年もすれば枯れてくると思っています。私の父は、「物事には順番があるので、この歳にもなれば長生きなどしようと思わない」と70歳を超えた頃から言っていて、がん検診などは一切受けていませんでした。そんな父を見てきているので、私もきっとそう言うだろうと思います。
福山市 病院事業管理者 高倉範尚
No155「ここしかない」、「これしかない」
2018年5月2日
私の後輩に「ここしかない」とゴルフのプレイ中によく言う男がいます。彼はシングルプレイヤーであり確かにゴルフは上手いです。「ここしかない」と言って狙ったショットを放ち、それがかなりの精度で「ここしかないところ」へ確かに飛んでいきます。ラウンド中に、これを連発されると参ってしまいます。私ももちろん「ここしかないところ」へ打っていきたいのですが、私の場合は「ここではないところ」に往々にして行ってしまいます。ゴルフには「ここしかない」が当てはまるかもしれませんが、仕事や日常ではどうでしょうか。
私は、医学は科学なので正解は一つですが、医療はいくつも正解があると思っています。若い人には『教科書は大切だがそれにこだわらず、目の前の患者さんをよく観察して答えを探しなさい』と言っています。医療は登山と同じようだと思っています。頂上へ辿り着くルートはいろいろあるので、「これしかない」はないと思っています。山の頂上を目指したくても果たして登山者にそれだけの力量があるのかどうかも問題ですし、また登ろうとしている山が噴火をしているような山では登りたくても登れません(ただ、それが分からない人は確かにいます)。
一昨年でしたか、日本老年学会などが現在は65歳以上である高齢者の定義を75歳以上に見直し、65歳から74歳を準高齢者とするよう提言したと報道されました。確かに近頃の高齢者は元気で、私自身もそんな歳になっているからそう思えるのかもしれませんが、70歳あたりはまだ若いとさえ言えます。例えば今年のある日、当院の外科、乳腺甲状腺外科、呼吸器外科で予定手術を受けた患者さんは9人で年齢は、88歳、74歳、65歳、82歳、82歳、25歳、87歳、53歳、64歳でしたが、うち4人が80歳以上の方です。
がん患者さんであるならば、進行度などによってそれぞれ「標準手術」があるわけですが、年齢や患者さんの全身状態によってはその「標準手術」が実施できないことがあるわけで、これが先述の、医療には「これしかない」はないということです。予定手術を受ける患者さんたちは比較的全身状態も保たれている場合が多いと言えますが、高齢の方には予定手術であっても全身状態が悪い方や、認知症が進行している患者さんたちも多くおられます。このような場合は、手術前にリハビリを進めて少しでも状態の改善を図るとか、患者さんやご家族と十分話し合いを行った上で治療方法を決定していますが、救急で来院される「今、手術を行わないと数日以内に亡くなる」ような患者さんで、大きな身体合併症を持っておられる方とか、認知症が進行していて施設に入っているが家人は遠くにいてすぐには来院できない、というような患者さんなど、このような患者さんが増えてきています。もちろん大きな身体合併症を持たれていても元気になって退院される方もおられますが、そうでない場合もあります。どうするのが一番良かったのか、結局答えが出ないことも少なくありません。
医療の世界の「正解」はこれからもずっと探し求める永遠のテーマだと思います。ただ言えることは、最近の医療では自分が希望しない限り「病状や見込み」について客観的な説明もあり、どのような形で最期を迎えたいかをわれわれ自身が意思表示できるようになってきています。この国の人たちが、どこかの時点で(私は高齢者講習が必要な運転免許証の更新時がいいのではないかと思っていますが)、「死の迎え方の意思表示」をするようにすれば、医療費の適正化にもつながりますし、また医療者が悩むこともなく、それこそ「これしかない医療」を行えるようになるのではないかと思っています。
福山市 病院事業管理者 高倉範尚
No.154 ある講演
2018年4月17日
3月の初め、藤原正彦さんの講演を聞きました。藤原さんは「国家の品格」を書かれた方です。
もう10年ほど前になると思いますが、初めて藤原さんの「国家の品格」を読み、なるほど、と共感をする部分が多くありました。そのとき、藤原さんのご両親が新田次郎さんと藤原ていさんであり、藤原さんは本来は数学者であることも知りました。それ以来、藤原さんが出された書籍は結構目を通し、いつも楽しく、うなずきながら読ませていただいていました。そんな藤原さんが広島に来られることを知ったので、申し込みをして聴講に行きました。
会場は広島中心部のホテルで、300名くらいの聴衆で満席でした。講演の演題は「論理と情緒」でした。おそらく、数学の話の次に藤原さんの得手の領域だと思います。聴いていて、「あっ、読んだ本にそんなことが書いてあったな」としばしば思いましたが、やはり、生の言葉で聞くと、よりうなずくところが多かったように思いました。
日本人の美的感受性は世界で類をみないそうです。将棋の「この一手」にしても最も美しい手が「この一手」だそうです。数学の定理の発見も美しいものが定理になるそうで、奈良女子大に在籍されていた数学者の岡潔先生は、数学には美的情緒が大切だと言われていて、ある日、記者に「美的情緒とは?」と聞かれて「野に咲くスミレを美しいと思う心」と言われたそうです。欧米人には難しい感性だそうです。この美的感受性はなにからきているのでしょうか?藤原さんは「美しい自然である」と言われていました。日本的な田園の風景、千枚田など、これらに心を動かされる、その心が感受性を育むのでしょう。そして、すべてのものに命を感じる心が、茶道や華道や香道などの「道」も生むことになったのだということです。
欧米人にも感受性が豊かな人はもちろんおられます。しかし少数です。欧米人は得てして論理的です。感受性が豊かな人は詩人などになるのでしょうが、欧米の庶民には詩人はほとんどいないと言われていました。ところが、この国には万葉の頃から庶民が「うた」を創っていました。このような国はないそうです。「秋の憂鬱」、欧米で感じるのは詩人だけ、この国では晩秋に「憂愁」を感じない人はいないほど、誰でも秋がいくことを惜しみ、紅葉を楽しみます。桜もそうです。欧米人も咲いた桜は美しいと感じるし、散っていく桜を見ると悲しさは感じるそうですが、散る桜を見て美しいとは思わないそうです。この散る桜を自分に見立てて、自分の生きざま、死にざまも潔く、そして美しくありたいと思うのはきっと日本人だけでしょう。古今集に「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし」という在原業平の和歌があるそうですが、この反歌に「散ればこそ いとど桜はめでたけれ 憂き世になにかひさしかるべき」という、桜は惜しまれて散るからこそ素晴らしいという和歌があり、これが古くから続く「散る桜を愛でる」この国のDNAというのでしょうか。
昨年も「エッ」と驚くような企業の不正があり、そして今も公文書の書き換え問題など、この国の根幹が揺らぐような事案が報道されています。この国の「悪」に対する感受性はどこにいったのでしょうか。私など、子どもの頃、お寺に掲げてあった地獄の絵を見て震えあがり、今でも恐ろしいと思っていますが、もうそんな時代ではないのでしょうか。講演を聞きながら、多くの人に藤原さんの書物を読んでいただき、国の品格を考えていただきたいと思いました。
福山市 病院事業管理者 高倉範尚
No.153 そしてまた
2018年4月2日
「管理者室より」をクリックしていただいた皆さま、お久しぶりです。
昨年11月の「No152 いつかまた」の投稿からまる4か月が過ぎました。最後の投稿の後、病院内外の方々から「なぜ止めたのですか」、「楽しみにしていたんですよ」という言葉を多くいただきました。今は大阪に住む同郷の従姉からも「田舎の話を時々書いてくれるから楽しみにしていたのに」と電話もかかってきました。
私自身のことですが、このたび福山市病院事業管理者に再任されました。この4月、新しく多くの仲間が当院に入職しましたが、この人たちに病院のリーダーがどのような人間なのかを知ってもらうには、文字も使って私の想いを伝えたいと思ったことと、そして何よりもこれまで応援をしていただいた方々とまたつながりを持ちたいと思い、この「管理者室より」を再開することにしました。どうかよろしくお願いいたします。
これまでは月に2回の投稿をしていました。この後、果たしてそれはどうなるか分かりませんが、せめて月に一度は何かを伝えられたらと思っています。
この冬、福山では雪は積もることはありませんでしたが、日本海側の地域では記録的な大雪に見舞われました。私の故郷の丹後半島でもたくさん積もりました。
私は故郷を離れてからも冬になると田舎の雪が気になって、天気予報は結構熱心に見ていました。寒気が南下してきて西高東低の気圧配置になると、決まって岡山県や広島県の天候よりも京都府北部の天候を気にしていました。そしてネットで積雪情報をチェックしたり実家近くの道路脇の定点カメラの映像を見ていました。
今年の2月10日ごろ、日本列島が寒気に覆われ、どうやら近畿北部にも雪が降りそうな予報でした。2月13日の朝早く病院に出てきて、いつものように積雪情報を見てみるとなんと実家に最寄りの地点が93cmの積雪となっていました。定点カメラの映像も見てみました。両親が亡くなるまでは正月には帰省していたので、その頃はきれいな雪を見ることもありましたが、もう何年もきれいな雪景色を生で見ていなかったので、写真でもいいから見たいと思い、ラインで弟に「雪がすごいね。写メ送ってくれる?」と打っている最中に、まさにドンピシャで、弟から雪景色の写メが届きました。ビックリしました。
弟と日ごろラインのやりとりなどはしていません。お盆の季節に連絡を取り合うくらいです。それがなんと、同じ時間に、私の「雪景色の写真を送ってほしいと思う気持ち」と、弟の「兄貴に雪景色を見せてあげたいと思う気持ち」がピッタリ一致したということです。確かに、電話をしたいと思ったときに、その相手から電話がかかってきたりメールが届くことは経験したことはありますが、これはそれ以上の偶然のように思えます。遠くにいても、「兄貴がこの景色を見たら喜ぶだろう」と気配りをしてくれる弟がいることが嬉しくて、この話を私の家族はもちろんのこと、病院の周りの人にも「こんなことがあったよ」と話しました。寒い日でしたが、心の中は温かで、幸せを感じた1日でした。
もう故郷の雪もすっかり消え、桜が咲くころではないかと思います。病院の周りでも桜が美しく咲いています。桜は1年のほぼ全ての時間を僅か10日ばかりのために準備し、美しく咲き、美しく散っていきます。散る桜を美しいと思うのは日本人だけの独特の感性だそうですが、この4月、私も美しく咲き、そして散る桜を眺めながら、気持ちをリセットし、これからも市民のため、そしてまた病院のために頑張っていきたいと考えています。
福山市 病院事業管理者 高倉範尚