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管理者室より 2017年度

記事ID:0000167 更新日:2021年1月4日更新 印刷ページ表示

No.152 原点と邂逅、いつかまた

2017年11月15日

 11月初めの連休に両親の七年目の供養のため田舎に帰ってきました。道中は車での移動になりますが、山あいを通ることが多く、色づき始めた紅葉を楽しむことができました。そしていつも思うことですが、子どもの頃に見慣れた実家周辺の風景は何十年たってもほとんど変わっておらず、私にとってはどこよりも落ち着く場所であると感じました。
 私が大切にしている言葉に「原点」と「邂逅」があります。この言葉はこれまで何度も使ってきましたが、私は「原点」とは人の精神を形作るもの、Back Boneだと思っています。そしてその「原点」は生まれてからの多くの人との出会い、多くの自然との出会い、多くの文化・書物などとの出会いによって造られるものだと考えています。多くの出会いの中でとりわけ決定的な出会いは両親との出会いではないでしょうか。お母さんのおなかの中にいるときから、意識などしていなくても、おのれの体と心の形が少しずつ作られていくのだと思います。「原点」を作るのには自然も大切です。四季がない国に生まれれば、書物で四季を知っても四季を体感できません。厳しい雪国で地吹雪の音に耐えて春を待つ子どもたちには、春の景色がきっと、より眩しく見えるのではないでしょうか。私が今、こんなことを考え、こんな想いを書くことができるは、間違いなく両親や丹後というふるさとが作ってくれたもので、感謝しています。
 この「管理者室より」のコーナーは当初は「院長室より」というタイトルで、両親が亡くなる直前の平成23年11月から始めました。No1に始まったいきさつを書いていますが、今回で152回目の投稿となり、このコーナーには毎月1,600件を超えるアクセスもいただくようになりました。読んでいただいた皆さんに対して心から感謝を申し上げます。
 モノを書く場合は当然読者を意識して書きます。No1には「一般の方」を対象に、私が医療について思うことをざっくばらんに書かせていただくと記していますが、実は当院の職員にも読んでもらいたいと思って書いていましたし、いつのころからか医療のこと以外についても書くようになりました。職員には私の内面を、文章を通じて少しでも分かってもらい同じ方向を向いて仕事をしてほしいと、そしてまた、院外の方々には福山市民病院のリーダーがどのような人間なのかを知ってもらい、そんなリーダーがいる福山市民病院は患者さんを想う病院であることを感じてほしい、との思いで月に2回、投稿を続けてきました。
 継続は力なり、という言葉があります。確かに継続することは大切なことですが、ただ継続するだけでは、能力がなければ、あるいは新鮮でなければマンネリズムになり、むしろ害をなすことにもなります。このたびふるさとに帰り、両親のことを思い起こし、ふるさとの景色を見たことで、一度原点に立ち返り、自分自身を見つめ直そうと思い、この回で「管理者室より」を一旦終了することにいたしました。私は今年、古希を迎えました。自分の心身を鍛え直すこと、リフレッシュさせることは難しいかもしれませんが、また皆様方に読んでいただける文章が書けるようになれば再開させていただきます。
 長い間ありがとうございました。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.151 サルコペニアの話

2017年11月1日

 近頃、サルコペニアという言葉をよく耳にしたり、目にもします。医療の世界でもリハビリや栄養に関わる人は以前からご存じだったかもしれませんが、私は何年か前までは全く聞いたこともありませんでした。
 実はサルコペニアは、1989年(平成元年)に初めてこの世に出てきたギリシャ語の「サルコ=筋肉」と「ペニア=減少」をあわせた造語で、「筋肉量の低下」を意味したらしいですが、近年はそれに加えて、「筋力低下」や「身体能力の低下」を認めるものをサルコペニアと言うそうです。いずれにしても比較的新しい言葉です。
 それはさておき、先日、備後脳卒中ネットワークのシンポジウムの講演で、熊本リハビリテーション病院の吉村芳弘先生の「サルコペニアの最新の話題とリハビリテーション栄養」という講演を聞きました。これまで、言葉だけは知っていたものの正しくその意味を理解していなかった私にとって、インパクトのある講演で、サルコペニアをそれなりに理解することが出来ました。しかし、吉村先生も冒頭言われていたようにラーニングピラミッドというのがあって、話を聴いても24時間後に覚えている量は、座学だと聴いた内容の5%程度ということなので、これから書こうとしている話はひょっとして多少の間違いがあるかもしれません。
 サルコペニアの原因は(1)加齢、(2)低活動、(3)栄養、(4)病気などと言われています。つまり歳をとると多かれ少なかれ、筋肉量は低下し、筋力が落ちたり身体能力が低下するわけです。人の筋肉量は一般的には30歳がピークで、その後は1年に1%ずつ徐々に低下していくそうですが、そうならば私などはもう30歳の頃と比べると40%も減少していることになります(研究によっては、20歳の頃と比べると80歳時の筋肉量の減少は男性で20%程度という報告もあるようです)。もう一つ、吉村先生が言われるには、「歩くこと」は筋力アップには結びつかないそうです。これにもビックリしましたが、思い当たるところがあります。実は先日、20数年前に私が肝右葉切除を執刀した患者さんが訪ねてこられました。年齢は80歳の方ですが、なんと「先生、私は毎日2~3km走っています」。「えっ、若いころ陸上をされていたのですか」と私。「いいえ、10年ほど前から始めました。だんだん、走る距離も長くなりました」と。私も極力歩くようにはしていて、歩いている最中に少し走ってみようと走り出すのですが、いいところ「1,2,3」と200数える間に足が痛くなって止めてしまいます。「もう2年近く歩いているのになぜ走れないのか」と不思議に思っていましたが、結局、歩くだけでは筋力はついておらず、おまけに根性もないので走れないのだということがよくわかりました。80歳の患者さんは、私とはケタの違う根性の持ち主だということも分かりました。おそらくゴルフの飛距離低下も「芯に当たらないこと」が原因ではなくて、筋肉量低下や筋力低下が原因なのでしょう。道具とか筋トレとか、対策には出費もかかるので飛距離はあきらめることにします。
 最後に、簡単なサルコペニアの診断ですが、両手の親指と人差し指で「輪っか」を作り、ふくらはぎの一番太い部分を囲ってみて、指がくっつき余りが出るようだとサルコペニアの疑いがあるそうです。くっつかなければ大丈夫ということですが、いかがでしょうか。この診断法、「Yubi-Wakka test」というそうです。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.150 日米がん格差

2017年10月16日

 夏のある日、アキよしかわさんからメールが届きました。アキよしかわさんは生粋の日本人ですが、若くして米国に渡りキャリアを築いてこられた医療経済学者で、多くの医療データ(医療ビッグデータ)を分析し、医療機関のコンサルティングを行う「グローバルヘルスコンサルティング(GHC)」という会社を立ち上げられた方です。ちょうどDPC制度(1日当たりの包括評価制度:診療報酬が、最も医療資源を投入した「傷病名」と入院中の「診療行為」の組み合わせによって評価される制度)が始まり、各病院が自分たちの病院が行っている診療行為が他の病院と比べてどうか、自分たちの購入している診療材料は他の病院に比べて高額ではないのかなど、病院間の比較を行い、「医療の質」、「経営の質」を上げていかなくてはいけないと考えていた頃に、アキさんは「ベンチマーク」という手法を用いて、改善に意欲のある病院のニーズに応えていたように覚えています。私は現在の病院に赴任してくる前の病院でDPCの導入やGHCのコンサルに関わっていたこともあって、アキさんを知っていました。
 そのアキさんのメールですが、2014年に検診で大腸がんが見つかり、得意の情報分析や、また「人の縁」から最終的には日本で手術を行い、その後アメリカで化学療法を受けた経験を「日米がん格差:「医療の質」と「コスト」の経済学」(講談社)という本にして出版したことを報告させていただく、という内容でした。この歳になると、私の知る同世代の人ががんになったり、心筋梗塞でステントを入れたという話を聞いても、「自分もいつかそんな日は来る」と思っているので特に驚きませんが、もともと生粋の日本人である米国人の「医療経済学者」がどんなことを書いているのか興味があったので購入して読んでみました。私は日本のがん治療はかなり均一化してきていると感じていますが、アキさんの目からはまだまだ米国に比べ「医師によって違っている」と映っているようです。また、米国には「キャンサーナビゲーション」というがん患者さんを支援するシステムがあって、米国の「がん診療連携拠点病院」にはその配置が義務付けられているそうです。実は日本でも「がん診療連携拠点病院」には「がん相談支援センター」の設置が義務付けられていて、当院にもありますが、米国では病院外にも研修を受けたキャンサーナビゲーターという「支援員」がいて、がん患者一人一人に担当のナビゲーターがいるそうです。きめ細かさは日本の得意分野ですが、がん支援では米国のほうが「きめ細かい」ということでしょうか。いずれにしてもこの本は私のような医療者よりは、一般の人が読めば「どのようにして医療機関を選んだらいいのか」、「がん治療はチャレンジである」ということがよくわかるのではないかと思いました。
 チャレンジでもう一つ、関原健夫さんの「がん六回 人生全快」(朝日文庫)という文庫本があります。関原さんは銀行マンですが、若くして米国で直腸がんを発病し、米国で初回の治療(切除術)を受けられましたが、その後、肝、肺に再発転移し、その都度その都度、原発巣切除も含めると6回手術を受け、完治された方です。ずっと以前、関原さんの講演を聴く機会があり、そのチャレンジ精神に感服し本を購入しました。最近は化学療法と切除の組み合わせで、従来は治ることなど考えられなかったような事例でも完治する機会は増えています。もちろん、全ての人がサバイバー(がんからの生還者)になれるわけではありませんが、可能性を信じること、あきらめないこと、チャレンジすることの大切さをこれらの書物は教えてくれると思います。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.149 文系と理系

2017年10月2日

 今年の6月、自治体病院の会合で「文系軽視・理系偏重が日本を滅ぼす」という刺激的な講演を聴く機会がありました。講演をされたのは佐和隆光さんで、佐和さんは経済学者で滋賀大学の学長をされていた方です。もちろん私は、講演を聴くまでまったく存じ上げてはいませんでした。
 2年ほど前、国立大学の学長宛に以下のような通知が出ました。つまり、「教員養成系学部・大学院、人文社会系学部・大学院については18歳人口の減少や人材需要の確保、教育研究の確保などの観点から、国立大学としての役割等を踏まえた組織の見直し計画を策定し、組織を廃止したり、社会的要請の高い領域への転換に積極的に取り組むように努めること」というものです。簡単にいえば、文系の学部は廃止して理系に転換しろ、ということです。なんと、文科省の有識者会議で、ある人が、「旧帝大、東工大、早稲田、慶応以外の大学の文系学部は職業訓練学校にしろ」と言ったそうです。どうもこの国は以前から文系軽視の風潮があって、戦争末期の学徒出陣も文系の学生に限られていたようです。
 また、ずっと以前、SONYを創業された井深さんが「10年先には国会議員、高級官僚、企業経営者の大半を理工系学部の出身者が占めるだろう」と予言されたそうですが、これは外れました。実は理系の人が国のリーダーになるとあまり良くないようで、全体主義の国家は人文系の知識を軽視し、また人文系の知識や文系の人を排斥すれば必ずその国家は全体主義国家になるそうです。ちなみに3代続けて中国の国家主席は工学部の出身で、旧ソ連もそうであったようですが法学部出身のゴルバチョフによって民主化されました。。
 そもそも彼は理系だ、彼女は文系だとは一体なんなのでしょうか。中学生から高校生の頃、数学や物理・化学などが得意だと理系、国語や社会が得意だと文系と評価され、進学などに際しても受験の科目などの関係から大学や学部を選んでしまったというのが、この国の理系学生、文系学生ということでしょう。佐和さんは、思考力や判断力・表現力を養う上で人文社会学系の知識・知恵は必須であり、これを獲得するには「難解な古典」を読むことが大切だと言っておられました。ちなみに「アメリカの大学の授業でよく使われる文献のトップ100」の上位にはプラトンの「国家」とかマルクスの「共産党宣言」とか、アリストテレスの「倫理学」とか、マキャベリの「君主論」などが入っていますが、私など、どれも読んだことがありません。確かにテレビで目にするスタンフォード大学の授業はあまりにこの国の授業とは違うと感じてます。
 佐和さんが言われるには、「共通一次試験」を導入したことが高校の早い時期に文系と理系に分かれることになり、理系学部の受験生などは国語や社会はセンター試験のレベルにとどめ、英数理に特化して勉強するので、人文社会系の知識や知恵と無縁なエンジニアが多くなる、高校生から大学生の時代は思考力・判断力・表現力や専門の基礎部分を学び、将来の職業に直結する専門的知識や技術の習得は大学院ですればいいと言っておられました。
 私は、高校生、大学生の頃、腰を据えて勉強をした記憶がありません。いつもその場しのぎの勉強をしていたように思います。学習の目的も自分自身を高めるため、とか、人間性を豊かにするため、などと思ってもいませんでした。「勉強しないと苦労するぞ」と言われ、「親に恥はかかせられないから」と、そんな思いだけでした。学ぶことの根幹を教えてもらっていたら、また違った「私」ができていたかもしれません。やはり、教育は大切です。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.148 医療連携-その2-

2017年9月15日

 以前、No24に「医療連携」は書いていますが、その2です。
 近頃、「医療連携」という言葉をよく耳にされると思います。これまで医療連携はなかったのか?と言われればそうではなくて、以前から病院と病院のつながりや病院と診療所のつながりはありました。ただ、確かにつながりはあってもそれを殊更に「医療連携」とは言わなかったように記憶しています。
 今の医療のKey Wordは「機能分化」と「連携」です。患者さんが何かの症状を訴えて医療機関を受診し、そこで検査をして診断し、手術等の治療を行い、もし手術のあと何らかの合併症を起こして傷の治りが悪ければそれがしっかりと癒えるまで、あるいはもう大丈夫と自信がつくまで同じ病院に入院している、このような医療は昔の話であって今はありません。まずは「かかりつけ医」を持つこと、診断がつき手術が必要なら手術が出来る病院へ紹介され、治療が終われば退院する。「家に帰るのはちょっと自信がありません」と患者さんが言えば、「じゃ、しばらく○○病院で様子を見て下さい」と次の病院を紹介される、こんな感じになっています。つまり、入院の医療機能を「高度急性期」、「急性期」、「回復期」、「慢性期」と分けて各々の病院が、これらの機能のどこかを受け持つようになっています。もちろん複数の機能を持ってもいいのですが、私の知る限り、これらの機能をすべて持った病院はありません。急性期の病院は在院日数を少なくし、病床の稼働率をあげることや1ベッドあたりの回転率をあげることで、増収となるように支払い制度が設定されています。したがって、急性期の時期を超えた患者さんが長く病院にいることは病院にとっては不都合なことになるわけです。回復期や慢性期医療を行う病院は、急性期病院からの受け皿になることで患者さんを安定的に確保しようと考えておられるでしょう。急性期の病院にとっても急性期を過ぎた患者さんを受け入れてくれる病院がなければ困ります。こんな具合に、今どんどん「医療連携」が進んでいます。
 ところがです。この「連携」は持っている医療機能が異なる医療機関同士であれば上手くいきますが、同じ機能を持つ病院同士では上手くいきません。今年の4月から、岡山市の岡山大学を含めた6つの急性期病院が「地域医療連携推進法人」を立ち上げ、地域の急性期医療をいろいろな角度から考え、行おうとしていましたが、少し頓挫しました。さまざまな理由があるでしょうが、簡単に言えば、これまで競争原理を基本にして「食べたいパイを食べられるだけ」獲りあってきたのに、食べるパイの種類や量も決められるのはイヤだということではないかと思っています。
 私の勤務する地域の「福山・府中圏域」でも同じことです。どの病院も経営がかかっています。外科の世界でも患者さんの獲得合戦は昔から続いており、例えば2015年に福山圏域で行われた370件あまりの肺や縦隔の手術では、3つの病院がそれぞれ100件あまり、1つが60件あまり行っています。こんな横並び状態で、少しでも他の病院より多くの患者さんを集めたいと思っている医療機関に、「あなたの病院では肺の手術は止めましょう」などと言われたら、病院の経営は困るし、呼吸器外科の医師はいなくなるし大変なことになります。
 地域に暮らす人はある程度アクセスの良いところに、それなりの病院があれば十分で、この病気は○○病院、この病気は△△病院などと勝手に決められるのは嫌だと思っている人がきっと多いのでしょう。現在、ある程度すみ分けが出来ている領域は上手くいくにしても、結局は自然淘汰的な収斂ということになるのではないかと思っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.147 松江界隈の話

2017年9月4日

 先日、自治体病院協議会の中国・四国地方会議が島根県松江市で開かれたので、初めて「やまなみ街道」を通り、行ってきました。「やまなみ街道」とは尾道道と松江道を併せてそう呼ぶそうで、尾道から今治に至る西瀬戸自動車道を「しまなみ海道」と呼ぶことから名づけられたようです。話がやや長くなりますが、「やまなみハイウェイ」というのはまた別にあって、これは別府と阿蘇を結ぶ九州横断道のことを言うそうです。その「やまなみ街道」ですが、なんと大部分が無料です。ほぼ山ばかりの光景ですが、紅葉の季節はさぞ美しいだろうと思いました。
 さて、松江市です。みなさんは松江といえば何を思い浮かべられるでしょうか。宍道湖のしじみ、国宝の松江城、堀川めぐり、玉造温泉などでしょうか。私は十数年振りの松江でしたが、今回ウォーキングがてら、朝早く松江城を見に行ってきました。城自体は大きくはないのですが、黒を基調にした確かに趣の感じられるお城でした。歩いたあと、ホテルのバイキングでお味噌汁をいただきましたが、中に入っていたしじみがやけに小さく、ビックリしました。宍道湖のしじみ、大丈夫でしょうか?
 この自治体病院の地方会議では、総務省や厚労省の人の講演や、テーマを決めたシンポジウムが開かれます。今年のシンポジウムは「地域医療構想の策定を終えて」と「自治体病院における総合診療専門医のあり方について」でしたが、それ以外に出雲学研究所の理事長の藤岡大拙さんの「出雲の魅力」という講演などもありました。この中に初めて聞いた話があったので紹介をしたいと思います。
 まずは宍道湖です。宍道湖の夕日は日本の湖の中では抜きんでて美しいそうです。作家の渡辺淳一さんが「極端にいえば、夕日に映えて美しくなければ、それは湖ではない。それほど、夕暮れは湖を美しくする。だがそれを認めた上で、なお、宍道湖の落日の美しさは、日本の湖の中で抜きんでている」と「みずうみ紀行」の中に書かれているそうです。そういえば国道9号線沿いに「夕日スポット」と書かれた看板を何か所か目にしましたが、残念ながら今回私は、その夕日を目にすることはできませんでした。
 次は出雲弁です。出雲弁は「ズーズー弁」だそうです。「ズーズー弁」といえば東北地方ですが、関東以西で「ズーズー弁」が残っているのは出雲だけで、これは古代の出雲の人たちが、自分たちを征服した「中央」に対して、長く心の中で反抗をしてきた証左であると話されました。どうやら古代の日本は「ズーズー弁」が標準語であったらしいです。またこのように出雲では、他の世界をシャットアウトしてきたので、感性が研ぎ澄まされ、「茶の湯の心」など、繊細な感性が培われたのだろうと言われていました。
 次に鳥取県と島根県の関係です。明治9年頃、島根県と鳥取県は一つの県であったそうです。なんと東西に長い県だったのでしょうか。でも、さすがにそれではまずかったのか、明治14年に二つの県に分かれたそうです。鳥取県が島根県に編入された、とか、鳥取県が島根県から分離したとウィキペディアにも書かれているので、島根県のほうが当時は勢いが強かったのでしょうか。ちなみに島根県は出雲、石見、隠岐と三つの国から成り立っていますが、出雲と石見はあまり仲がよろしくないようで、この「出雲の魅力」の講演の後の質疑で、石見地方の病院の院長から「出雲の人は石見の人をどう思っているのか?」などの質問が出ていました。
 当院には松江出身の医師がいるので病院に帰ってから「松江ってズーズー弁?」と聞いたところ、間髪をいれず「そうです」と「ズーズー訛り」で答えが返ってきました。近くにいても知らないことは多い、ということを実感した会議でした。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.146 8月は想う月

2017年8月15日

 夏といえば、「照りつける太陽」、「入道雲」、「夕立」、「やかましい蝉の声」、「昼下がりの静けさ」などを思い起こします。梅雨明けの7月は暑いとは言ってもむんむん蒸す不快な暑さで、「からっとした眩しい暑さ」はやっぱり8月、夏は8月と思っています。
 今も私の故郷では、大人たちは昼下がりは仕事を休んで身体を休めているのでしょうか。子どもたちは昼寝をしているのでしょうか。私が子どものころは田舎の道を通る自動車も少なかったのは事実ですが、真夏の昼間は蝉の声以外に聞こえる音はなく、通りを歩いている人の姿もほとんど見かけませんでした。勤務をしていた父を除いて、祖母や母や弟と静かに昼寝をしていた時に何を考えていたのかもう忘れてしまいましたが、本当にのどかで家族のつながりを感じられる空間と時間であったように思います。
 夏休みは多くの子どもにとっては最高の休みで、何といっても休みは長く、海水浴へ行ったり、お盆には親戚の人が来てくれたり、こちらも一泊くらいで母の実家に出かけたり、そしてそんな時にはご馳走も食べられたり、私も一番楽しかった休みは夏休みでした。しかし、その楽しい夏休みは学生の頃までの話で、お盆のことは、このシリーズのNo50に少し書いていますが、実は8月はお盆以外にも祈らなければならないことが多くある月で、いつの頃からか8月は祈りの月、想う月だと意識をするようになりました。
 原爆は広島市で仕事をするようになって強く意識するようになりました。平和教育の詳細は知りませんが、広島市、あるいは広島県の子どもたちが受けている平和教育と、他の都道府県の子どもたちが受けている平和教育には少し違いがあるのではないかと思っています。語り部の話など私は小学生時代に聞いたことはありませんでしたが、少なくとも広島市に住む子どもたちは当時から、いろいろな機会に話を聴いたり、原爆資料館に行ったりしていたのではないでしょうか。今はどうでしょう、広島以外の地域に暮らす子どもたちは直接に、あるいは映像で語り部の話を聴いたり、展示資料を見たりしているのでしょうか。広島ではまだまだ原爆が身近にあり、多くの悲惨な事実が「この前」のこととしてあります。8月6日や8月9日は広島や長崎にいれば祈らねばならない日になるのです。犠牲者を悼む気持ちと平和を希んで合掌する、自然にそうなります。広島を離れた今でも8月6日はそのような日になりました。そして8月15日です。8月15日にはさまざまな想いがそれぞれの人にあると思っていますが、日中戦争から太平洋戦争まで、この国では300万人を超える人たちが犠牲になったと言われています。その人たちには家族があり、家族の人たちの苦しみを併せれば、苦しみの数は何千万にものぼるでしょう。私は国を想い、家族を想い亡くなった人たちに祈ることは当たり前のことだと思っています。そして、もうひとつの祈りは祖先を供養するお盆です。今の自分がこの世にあるのは間違いなく祖先が命をつないできてくれたからです。多くの偶然が重なり私たちが今存在しています。感謝をする以外にありません。そして、自分が受けた命を次につなぐこと、想いを伝える大切さを必ず思い起こさせてくれます。いつまでお墓参りが出来るかわかりませんが、お盆にはお墓の前で両親や先祖と相対して、自分のこれまでとこれからを考えなければならない、そう思っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.145 40周年を迎えて

2017年8月1日

 私の勤務する福山市民病院は今年(2017年)の8月に、開院して40年が経過します。病院が開設された時、私は今でいう外科の後期臨床研修医としてこの病院に勤務していました。私の消化器外科医としての原点はこの病院にあり、そしていくつかの病院を経て、消化器外科医としてのキャリアもこの病院で終えることに定めを感じています。
 病院は福山市街地の北東に位置する、蔵王という地の丘の上に建っています。病院のすぐそばには山陽自動車道の福山東インターチェンジがあります。病院ができた当時はもちろん山陽自動車道は存在せず、私自身はそんな道ができることなど全く知りませんでした。開設当時、病院から南の方向を見てみると、新幹線の橋脚まではほとんどが田畑で、家はちらほらある程度でした。
 現在の病院は病床数506床、28診療科、医師数158名と広島県東部地域では最も病床数や医師数が多い病院になりましたが、開設当時は250床、10診療科、医師数22名のこじんまりとした病院でした。医師も若い人が多かったのですが、看護師も多くが新卒で臨床経験がないため、開院前の1か月間ほどは看護師に臨床の講義をしていました。後期臨床研修医であるにも拘わらず、です。ただ、自分たちが新しい病院を創っていくのだ、とか、ちゃんとした病院を創るには最初が大切だ、などと当時の職員は気合が入っていたように覚えています。
 外科の世界では、新しい病院の最初の手術は「若い女の子」が良いという言い伝えがあるようです。最初の手術が「若い女の子」だと、そこの外科は繁栄するというのです。40年前に先輩がそのように言っていました。根拠のほどは確認していませんし、本当かどうかは知りません。というわけで、当院の外科では「若い女の子の脱腸か盲腸」をターゲットにして、開院数日を過ごしましたが、結局「若い女の子の脱腸も盲腸」も来ず、外科の最初の症例となったのは「お年寄りの女性の胃潰瘍」でした。新米の病院ということもあり、当初は手術日に手術がないということもしばしばありました。「やっぱりお年寄りの手術が最初だったから手術が増えないのか」と思ったりしましたが、次第に患者さんも増え、私は2年間の研修期間中にさまざまな疾患を経験させてもらいました。ちなみに開院39年であった2016年の外科・呼吸器外科・乳腺甲状腺外科を併せた手術件数は1,548件(全身麻酔1,480件)であり、先の「若い女の子がいい」という話は「当たっていない」と思います。
 少し話がそれましたが、当院の40年は決して順風満帆であったわけではありません。病院が始まって数年経ったころ、経営状態が悪くなり、倉敷市のK医大に身売りをする話が出ました。当時私は岡山大学で仕事をしている頃で、その話を風の便りに聞き、心配をしたことを覚えていますが、この危機をすべての病院職員の頑張り・努力で乗り切り、その後は病院の目標を誰もが共有するようにもなり、病床数も250床から300床、400床、そして506床へと増加し、医師や看護師なども増え、医療機器の整備も進んでいき、広島県東部を代表する病院へと発展してきました。この40年の間、当院に籍を置き頑張っていただいた皆さん、委託の業者さん、患者さんを紹介していただいた医療機関の方々など、多くの人のおかげで今日があると感謝しています。
 病院は立ち止まることを許されません。医療は日進月歩の時代です。当院は「高度な医療を安全に行う」ことが求められる病院です。常に自らが行う医療の「質と安全」を意識しなければなりません。「公明正大な医療、どこに出しても、どこから見ても恥ずかしくない医療」を行わなくてはいけません。こんなことを意識しつつ、次の10年に向けて道筋をつけていきたいと考えています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.144 ある封書-長寿のお祝い-

2017年7月18日

 5月のある日、所属する医師会から封書が届きましたが、表に「長寿のお祝い」と印字されていました。「長寿?そんな歳でもないのに」と思いながら封を開け、書かれている文章を読みましたが、中には「先生はこの度めでたく古希を迎えられます。ついては長寿をお祝いしたいので医師会の定時総会に出席して頂きたい。前の方に席を用意しております」と書かれていました。もちろん迷惑だとは思いませんでしたが、「そうか、今年は確かに70歳になるな、めでたいのだ」と改めて思いました。階段もまだ小走りに、かつリズミカルに降りることができますし、自分では高齢だとは思っていませんが、確かに青年とか壮年などと言われる時期はとっくの昔に過ぎ去り、老人に分類される歳になっています。気持ちはまだ若い時のままだ!などと言っても所詮無駄で、顔つきなども老人のそれになってきているようです。
 そもそも人はどういう時に歳をとったと意識をするのでしょうか。おそらく人それぞれでしょうが、「これまでとは違う」と感じるようになった時から、「歳を意識する」のだと思います。ある人は目が見えにくくなる、またある人は膝が痛くなる、あるいは物忘れが多くなったり、ゴルフで飛距離が出なくなったり、そんなときに歳をとったと思うのでしょう。そして、私はと言えば、日常生活を送る上で歳をとったと意識はしませんが、最近の写真を見てみると顔が小さくなり張りがありません(ただ、顔はもともと大きいので周りの人が分かるかどうか)。そう言えば私の両親も田舎に帰省するたびに小さくなっていました。歳をとってくると若いころに比べて食べる量も少なくなります。身体の水分量も減るでしょうし、張りもなくなるので実際に縮んで行くのだと思っています。その他にも若い頃と違うことは多少あります。ゴルフの飛距離は確かに落ちました。先日、ヘッドスピードを計測してもらったところ一生懸命振り回しても40m/s(meter per second:1秒間に何メートル進むかということ)いきませんでした。飛ばないはずです。しかし、私はポジティブなので、当たれば飛ぶ、といまだに思っています。飛ばないのは芯に当たってないからだと。また、若い頃は腹ばいで本を読むことができましたが、今はできません。腹ばいになると眼と本の距離が近くなり、文字をはっきりさせるためには首を持ち上げなければならないのですが、これが持ち上げられません。首が痛くなるのです。頚椎の変形があるのだろうと思っています。そのうち手が痺れるようになると思っていますが、何も腹ばいで読まなければいいので、まだまだ歳は感じていません。冠動脈の石灰化だって結局ステントは入れなかったではないか、などと思っています。別に加齢にあらがっているつもりはないのですが、少しだけ「流れ」に抵抗してみるか、と思っているのかもしれません。
 それにしても還暦とか古希とか、いつの頃から言い出したのでしょうか?古希はおかげで迎えられそうですが、喜寿や傘寿、米寿や卒寿など、このあたりになると私には縁がないと思っていますが、最も高齢の長寿祝いは250歳で「天寿」と言うそうです。よく「天寿を全うした」ということを聞きますが、250歳まで生きていなくては天寿とは言えないのかもしれません。ちなみに、ギネスが認定している人類の最長寿は122歳で亡くなられたフランス人女性だそうです。それから思えば、私などまだまだひよこもいいところですが、とりあえずこの先は「喜寿」を目指してみようと思っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.143 病院の広報

2017年6月30日

 当院には「ばら」という名前の広報誌があります。この広報誌は2003年(平成15年)6月に第1号が発刊されました。創刊の巻頭に当時の浮田院長が、「病院のさまざまな情報を発信することと、病院を利用される患者さんやご家族、そして他の医療機関・介護施設などの方々との意見交換を行いたいと思って発刊します」と、その思いを書かれています。「ばら」は発刊当初は年に4回の季刊であり、ページ数も8ページほどのものでしたが、次第にボリュームも増え、現在は48ページでしかも年に6回発行しています。いろいろな人から、「先生の病院の広報誌はすごいですね」とよく言われますが、「ばら」の発行に関わってくれている広報室のスタッフや原稿を書いてくれる職員には本当に感謝をしています。
 当院の広報室は広報誌の発行だけではなく、ホームページの運営や、冊子媒体である「診療案内」、「看護部あんない」や「臨床研修案内」、の発行など多岐にわたる活動をしてくれていますが、この広報室のK室長がとても有能でエネルギッシュです。実はK室長の本職は「麻酔科医師」ですが、麻酔科業務の傍ら、PRのあり方や普及・啓発を目的に設立された日本パブリックリレーションズ協会の「認定PRプランナー」の資格も取得した、いわばPRのプロで、さまざまな機会を通じて、効果的に当院のPRをしてくれています。K室長の考えは、広報は(1)職員相互のコミュニケーションが進み、チーム医療を推進する、(2)安定したリクルート活動に繋がり、人材を確保できる、(3)カンファレンスなどを広報することで教育・研修への意識が高まり、知識・スキルがあがる、(4)病院機能が上がり先進的な機器の導入が進み、連携の実も上がる、(5)コスト意識を持ち経営の健全化も進めるなど、これらのことを推し進める力となり、「医療安全に役立てる」というもので、昨年10月に富山市で開かれた全国自治体病院学会で発表されました。当院の発展にK先生や広報室は大きな貢献をしていただいており、これからもより強化をしていかなければいけない部門だと考えています。
 例えば、いろいろな企業のテレビCMも広報の一環だと思います。CMって役に立つのかなと思っていたこともありますが、そんなことはないのです。私も「バンカーが怖くない」サンドウェッジや、2週間でウエストが5cm細くなる腹筋鍛え器、鮮やかに青春がよみがえるという「君の詩」、高圧の放水機など、ちょろいものです。深夜から明け方にかけての時間は多くのチャンネルがテレビショッピングばかりで、観ているうちについつい電話をしてしまいます。そう言えば、私の父もいつの頃からかテレビショッピングに熱を入れ、盆・暮れに田舎に帰ると見たこともない機械やら道具が転がっていて、家内が上手に父をちょろまかし、岡山に持って帰っていました。
 さて、当院の広報です。K室長が当院のホームページのアクセス状況を解析し、ユーザーはどのような情報を求めているのか、またその解析からどのような情報発信をしていけばいいのかを最近論文にまとめていますが、それはさておき、K室長の論文によれば、この「管理者室より」にも毎月1,600件を超えるアクセスがあります。なんと当院の看板の「救命救急センター」の閲覧や、大所帯の「外科診療科等のご案内」や内科の「スタッフ紹介」より多いのです。こんなことでいいのでしょうか?ちょっと心配です。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.142 働き方改革-医師の場合-

2017年6月15日

 電通の女子社員の過労死から世の中が変わりつつあると感じています。政府は「働き方実行計画」を決定し、時間外労働の厳しい規制に乗り出しました。報道によると罰則付きの改正労働基準法が施行されることになるようです。医師ももちろんその対象です。ただ医師の場合は一般職種とは異なり、実施は改正労働基準法の施行から「5年後をめどに」ということになりました。厚生労働省は、医師の労働時間の短縮策や規制のあり方について2年後をめどに結論を出すとしていますが、果たして効果的な時間外労働短縮への処方が出せるでしょうか。
 医師の時間外労働はずいぶん以前から問題になっていました。最近、厚生労働省が行った1万5千人を超える医師へのアンケートによると、男性の常勤医師の1週間の平均勤務時間は、20代が57.3時間、30代が56.4時間、40代が55.2時間、50代が51.8時間、60代が45.5時間であったそうです。また、日本病院会のアンケートでは、月80時間以上の時間外勤務をしている常勤医師が存在する病院は599病院中252病院(42%)、そのうちの54病院では20%以上の医師が80時間以上の時間外勤務をしているという結果だったそうです。当院も例外ではなく、80時間以上の時間外勤務をしている医師はいますし、月によっては100時間を超える医師もいます。労働基準監督署からも改める勧告を受け、時間外勤務の短縮には努めていますが、なかなか難しいのです。当院で、もし過労死でも起ころうものなら間違いなく私の責任が問われるでしょう。
 最近、聖路加病院の時間外勤務のことが話題になりました。聖路加病院では長時間の時間外労働と、本来は支払う必要のあった賃金の未払いが問題となり、過去2年の間の未払い分10数億円を支払ったようです。長時間の時間外労働への対策については、これまで免除されていた60代の高齢医師の準夜帯での出務や救急車の受け入れ制限、夜間での患者家族への病状説明の中止などをしていて、この5月からは土曜日の外来を廃止したそうです。こうなると患者さんや家族の方々へ見える形で影響が出てきます。
 そもそも医師の時間外労働をどのように評価するのかは極めて難しい問題です。裁判所の判例はあるものの、研修医の時間外は研修か仕事か、本来は2人で完遂できる手術に3人目として研修目的で参加した医師の時間外は研修か仕事か。診療力もあり要領よくテキパキと仕事をするA医師なら時間内で終わるが、要領が悪く力に問題のあるB医師だと時間外に食い込んでしまう、これをどのように評価するのか。私も若い頃、先輩の先生から「あんたらは仕事が遅うて時間外手当がもらえるからええのう」と言われたことがあります。これはどうなのでしょうか。病院からの呼び出しはないが、手術をした患者さんが気になるので土曜日や日曜日に病院に患者さんを診に行く、多くの外科医がそうしていますが、これは時間外労働でしょうか?土曜日や日曜日に患者さんを診に行かなければ、「先生が来てくれない」というクレームにもつながります。私は手術前の説明をするのは土曜日や日曜日を使っていました。これは家族の方が休日の方が集まりやすいと思っていたからです。これを平日の昼の時間にしようとすれば会社に勤めているご家族は休まなければいけません。さらに医師には「応召義務」があり、患者さんが来られたらいかなるときでも診療をしなければいけない義務があります。「時間外だから診れません」とは言えないようになっています。
 医師の数をまだまだ増やして、看護師さんのように2交代、3交代にすれば時間外は無くなると思いますが、おそらくこれはありえないことでしょう。
 時間外労働の基準はあっても明確に線引きされておらず、病院によって多分違っており、同じ病院でも人によって違うかもしれません。果たして厚生労働省は医師の時間外労働に対してどのような策を行うのでしょうか。悩まなくてもよい答えを待っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.141 ジュディ・オング倩玉

2017年6月1日

 ジュディ・オングさんは多才な人です。彼女は版画家としても高名で、ジュディ・オング倩玉(せいぎょく)という名前は版画家としての雅号だそうです。そのジュディ・オング倩玉さんの版画展が岡山のあるミュージアムで開かれていると聞いて先日行ってきました。私は絵が下手くそで小学生の頃から褒められたことなど全くなく、絵の上手な同級生に劣等感を持っていました。下書きまではいけるのですが、色彩感覚がないのか絵が絵にならないのです。そんな私ですが、絵を見ることは嫌いではありません。そして、ジュディさんの版画ですが、実際に見てビックリしました。実は私は彼女が版画をしていることなどつゆ知らず、地元のテレビ局のCmでやたらこの版画展のことが流されるので軽い気持ちで出かけたのですが、趣味の世界など通り過ぎ、素晴らしい作品が展示してありました。京都、長崎の歴史的建造物、町屋や花などの作品が多かったのですが、一つ一つの作品に対する彼女のモチーフが彼女の言葉で作品の傍らに書かれていたのも印象的でした。
 高校生の頃に家族で見ていたTV番組にNHKの「あしたの家族」という番組があり、実はこの番組にジュディさんが出ていました。彼女が15歳くらいの時です。ドラマの中の彼女はオデコが印象的で快活で利発そうに見えました。私の記憶に間違いなければ、彼女は「あしたの家族」の中では「るみ」という名前の一家の中の妹役であったと思います。快活で利発(な役柄)、これで私はジュディさんのファンになりました。当時、私の家では初めて猫を飼うことになったのですが、メス猫だったこともあり、両親に命名権をもらい、この猫に「るみ」という名前をつけました。その後も、ジュディさんの成長を静かに見ていましたが、彼女が上智大学に進み、語学も何か国語も堪能であることを知って、自分の眼の確かさを人知れず自慢していましたが、たまたまだったことは「家内を選択」したことで分かりました。ところで「るみ」ですが、かなり長生きはしましたが、私が大学生の頃、交通事故で死んでしまいました。その頃は私の頭の中からはジュディさんは消えていましたが、社会人になってから数年経った頃、彼女は「魅せられて」でまた私の前に、しかも今回は快活で利発な姿ではなく、妖艶に登場してきました。これもimpressive(印象的)でした。
 「天は二物を与えず」とよく言いますが、私は天は二物どころか三物も四物も与える人には与えているように思います。ジュディさんを見ていればよく分かりますが、ただそんな人は見えないところで凄まじい努力をしているのかもしれません。才能を羨むよりは何かを決意した時、それが継続できない意思の弱さや、目の前の楽しさに負けてしまう自分を恨むべきかもしれません。
 昨年は春先に生口島(広島県尾道市瀬戸田町)の平山郁夫美術館に行って幻想的な世界を味わいました。ジュディさんの木版画には日本的な「わび」や「さび」の世界が感じられましたが、作品の奥行きは平山さんの絵もジュディさんの版画も、静かに目を閉じ、想像する世界でより広がるのではないかと感じました。
 当院にも寄贈された絵や、ふくやま美術館の絵を貸し出してもらって展示していますが、残念ながら病院の絵は静かに落ち着いて見ることができません。病院といえどもWeek dayはそれなりに音が聞こえます。また、人の出入りが少ない土曜や日曜は院内の照明を落としているため観賞しにくいと感じています。何かいい知恵はないでしょうか。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.140 講義

2017年5月18日

 春のある日、母校に年に一度の講義に行ってきました。私の担当は「消化器系統合講義」という講義の中のひとコマで、医学部の4年生を対象に「膵疾患の外科治療」について講義を行っています。もうぼつぼつお役御免にしてもらってもいいとは思っているのですが、そうなればそうなったで少し寂しい気持ちになるかもしれません。
 最近の学生は、以前の学生とは違う点がいくつかあります。以前は講義中に居眠りをしている学生がチラホラ見られましたが、最近はそんな姿はほとんど見かけなくなりました。朝イチの講義であっても出席率は高いし、一生懸命聴いてくれ、中には相づちを打つような学生もいます。ただ、冗談を言っても笑わず、元気度に乏しい気もしています。女子学生が多く、講義室はカラフルで、むさくるしいという感じはありません。ただ不思議なことに男子学生と女子学生が上手く混じり合って着席するのではなく、なぜか右側が男子学生、左側が女子学生という具合に分かれて座っています。何故でしょうか。
 授業時間ですが、以前は100分授業でしたが、2年ほど前から60分授業に短縮されました。私の講義だけというわけではなく、すべてのコマが60分になったようで、聞いてみると60分くらいが集中力を維持するためには適当だからということでした。しかし、この60分間はあっという間で、エッセンスのエッセンスのみを教えるにしても短い気がしています。学生に基礎的な知識があればまだしも、4年生では理解するのが厳しいかなと思っていますが、自分の学生時代のことも思い起こしつつ、ビデオなども使い、極力分かりやすく講義をするようには努めています。しかし、外科の授業は学生にとってはあまり興味が湧かないかもしれません。私自身がそうでした。胃がんの手術術式や手術成績を聴いても「ふーん」で終わっていました。私は外科という領域は実践が問題なのであって、座学で学ぶものではないと思っていたのだと思います。今にして思えば、当時の教官は「外科学」を教えてくれていたのに(たぶん)、私は手術に関わる手技や操作に期待をしていて外科の授業に興味が湧かなかったのではないかと思っています。
 2年前の4月、名古屋市で開かれた外科学会に出席したときの話です。学会場では多くの発表や討議が行われるばかりでなく、医療機器の展示や書籍の販売も行われます。そんな書籍販売場を学会の合間にのぞいてみるのもちょっとした楽しみですが、名古屋の学会場で「外科学の原典への招待」という本を見つけて買い求めました。この書は外科の人間なら知らない者はいないというような手術や手技を最初に行った人の論文が紹介されている書で、高名な日本赤十字社医療センター院長のM先生が推薦文を書かれており、それには「科学教育をしていくにはオリジナリティーの尊重が何よりも大切。先人の努力を無視してはならない」と書かれていました。私も以前から若い医師に「外科の歴史を知らずして手術を行うな」と言ってきました。つまり、膵臓の領域の手術をするならば、膵臓外科の歴史、苦労を知らずして膵臓の手術をしてはいけないということです。
 私はこれまで講義では膵臓外科の歴史も話すようにしてきました。持ち時間が60分になったとき、さてどうしようかと迷いましたが、やはり歴史は少しだけ入れることにしました。学生にはあまり興味がないかも知れませんが、この話にも相づちを打ってくれる学生がいたので、将来はいい外科医になってくれるのではないかと期待しています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.139 浅田真央さんの引退

2017年5月1日

 2017年4月10日午後11時前、テレビを観ているとニュース速報というテロップが出てきました。この時間に何だろうと画面を見ていると「浅田真央、引退を自身のブログで発表」と文字が流れていきました。その頃の時間から始まる深夜の報道番組では浅田選手の引退が大きく取り上げられ、夜遅い時間にもかかわらず、新橋駅前での街頭インタビューも放映されました。
 小学生の頃、全日本選手権で7位になったというのは知りませんが、私の中での記憶では、彼女は確かトリノ五輪の前年、驚きのデビューを飾りました。多くの選手が緊張の面持ちで演技をするのに、浅田選手(選手と言うにはあまりにあどけなく、「真央ちゃん」がぴったりでした)は演技中笑みを浮かべ、高くそして速いジャンプをいとも簡単に成功させグランプリファイナルで優勝してしまいました。すごい選手が出てきたと思いました。トリノ五輪は間違いなく金メダルだと思っていましたが、年齢制限で出場できなかったのは誰もが知っている事実です。そして、トリノは出られなかったけれど次のバンクーバーでは絶対金メダルを獲ると日本国民の誰もが思っていたのも、おそらく間違いないでしょう。しかし、バンクーバーでもソチでも彼女の想いは達成されませんでした。本当に非情を感じます。
 私の記憶にある限り、真央ちゃんほど多くの国民から愛され、そして大切にされたアスリートはいないように思います。ライバルであったキム・ヨナ選手は「国民の妹」と呼ばれていましたが、真央ちゃんはわれわれ国民から見ればどうだったのでしょうか?「私の子ども」、「私の妹」、「私の孫」、「私のお姉さん」、そして少し大人になってからは「私の恋人」、こんなのが全部当てはまる存在だったのかもしれません。私は、自分の娘のように思っていて、バンクーバー以降はいつも胃が痛くなる思いで見ていましたが、2年前の復帰以降は見ていると痛々しささえ感じ、結果を確認してから演技を見るようになっていました。
 どのような選手であれ現役を引退するときは来ます。引退の仕方もいろいろあると思っています。真央ちゃんの引退の理由はいろいろと憶測されていますが、彼女の決断がすべてであり、こんなところでわれわれは評論家になる必要はありません。私は、日本中の誰もが真央ちゃんにこれまでの感謝とこれからの激励、そして幸せへの拍手を送っていると思います。
 2017年4月10日に、あるテレビ局で「美空ひばり生誕80周年記念」の4時間番組があり、多くの歌手がひばりさんのヒット曲を歌っていました。真央ちゃんの引退のテロップは、この番組の最後に出演者全員で「川の流れのように」を合唱しているときに流れたように思います。ひばりさんも小さい頃から天才と言われ、亡くなられるまで、そして亡くなられた後も人気は衰えず、今でも多くの人の心を捉えています。真央ちゃんもそんな人生を歩んでほしいとテレビを見ながらふっと思いました。引退した後どうされるのか知りませんが、これからもあの可愛らしい笑顔を見せてくれたらいいなと思っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.138 恩師との別れ

2017年4月14日

 No137に「3月と言えば」という表題で、「3月と言えばいろいろな人、いろいろな場所との別れが思い浮かびます」と書きましたが、3月29日に倉敷市内で病院を開業している後輩のM先生から「I先生が今朝亡くなられた」と連絡が入りました。
 私は大学を卒業して外科医局に入局し、4か月間大学病院で研修を受けた後、倉敷市内の150床規模の外科系病院に赴任しました。I先生はその病院の副院長をされていて、公私にわたりずいぶんお世話になりました。先生は相手の気持ちを大切にされる方で、決して自分の思いを押し付けるということはなく、どんな人であっても話に耳を傾け、間違っていると思ったときは「優しく、そして分かりやすく諭して」おられたように記憶しています。特にお年寄りからの信頼は抜群で、また多くの「その筋」の人からも慕われていました。私とは年が16歳ほど違うので、私が倉敷に赴任したときは40歳少しだったことになりますが、手術も自らが執刀することはなく、大学から診療援助(ネーベン)で来られている若い先生たちに執刀させ、先生ご自身は第一助手をされていました。私も虫垂炎やヘルニア(脱腸)などの手術をずいぶん教えてもらいました。
 私は、常日頃、事あるごとに「医療は優しくなければならない」とか「人に優しく接してほしい」と言っています。私は外科医としても「優しさ」は、「手術がうまい」より上位に来るのではないかとさえ思っています。「手術は普通だが優しい」と「手術はうまいが怖い、怒りちらす」とでは、前者の方がしっかりとしたチーム医療ができると思います。手術はうまいに越したことはありませんが、大切なのは「自分の技量をしっかりと分別して、できないことはできる人にやってもらう度量」ではないかと思っていて、そんな考えを導き出してくれたのはI先生ではないかと思っています。
 I先生がもう少し若いころ(10数年前)、扁桃周囲膿瘍になられて勤務されていた倉敷市内のM病院に入院されたことがあります。当時私は広島市民病院に勤めていました。広島から岡山に週末帰る途中病院に見舞いにうかがいましたが、なんと先生が気管切開をされていてびっくりしました。院長である後輩のM先生に尋ねたところ、病院に運ばれてきたときには窒息寸前だったと。私は先生の気管切開された姿を見て、ぼろぼろ涙が出てきました。「こんなことで死なないでください」という思いでした。その後元気になられましたが、何年か前に血液疾患で治療をされたり、昨年消化管の手術も受けられました。昨年の暮、M病院に手術に行った際、車イスに乗ってリハビリに来られている先生を見かけて話をさせていただいたのが最後になりました。いつかはこのような日が来ることは分かっていたので、亡くなられたという知らせを受けても、気管切開のときのように涙が出てくることはありませんでした。
 誰であっても人の命には限りがあります。齢を重ねるほど大切な人や大切な場所との別れの覚悟も必要になってきます。突然、覚悟を突きつけられるという残酷なこともしばしばあります。私のその時期はできればもう少し先がいいと思っていますが、突然覚悟を迫られたときには、ちゃんと覚悟ができるだけの心づもりはしていたいと思っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.137 3月と言えば-送別会-

2017年4月3日

 3月と言えばいろいろな人、いろいろな場所との別れが思い浮かびます。ところが私自身のこれまでの送別会を思い浮かべてみると決して3月が多いわけではないのです。昭和の終わりごろ、大学での研究・臨床の時代を終えて最初に赴任した病院は庄原赤十字病院でしたが、この時は4月の赴任だったので、3月末に大学の近所の宴会場で、私と同じ時期に関連病院へ赴任する後輩や他の部署に配属される病棟の副師長と一緒に送別会をしてもらった記憶があります。ただ、それ以後は国立福山病院、岡山大学、広島市民病院、福山市民病院と都合4回の転勤を経験しましたが、異動の時期は4月ではなく、夏や冬でした。
 福山市民病院の医局でも医師の転勤時には送別会を開くのが常ですが、圧倒的に送られる人が多いのは3月の送別会です。今年の3月末で退職された先生の中で一番長く勤務された先生は循環器内科のT先生でしたが、勤務年数はちょうど9年で、私より9か月長いだけでした。私も結構古くなってきたと感じました。組織は新陳代謝が必要で、古い人が長くいるのはいろいろと問題があると思っていますが、ただ、古い人でも若い人の力を伸ばすことができる人、変革に億劫を感じない人、組織を変えることに前向きな人なら多少古くてもいいのではないでしょうか。
 今年も院内だけではなく、院外の送別会にも何回か出席する機会がありました。昨年から今年にかけて何名かの母校の教授の退官祝賀会にも出席させていただきましたが、人事の面でいろいろとお世話になった方々であり、万感胸に迫る思いも感じました。大学の定年はどうやら大学によって少し違うようですが、岡山大学は65歳が定年です。以前ならいざ知らず今の65歳はまだバリバリの現役と言ってもよく、皆さん方次の職場も決まっており、昨年秋に辞められた高名な心臓血管外科のS教授はカリフォルニア大学サンフランシスコ校の心臓血管外科教授に就任され、それこそバリバリ頑張っておられるようです。
 私の出身教室でも長く医局秘書を務めたSさん、標本整理室で標本の管理や標本の切り出しを手伝ってくれたNさん、医局長を務めていたM先生の送別会が開かれ、声をかけていただいたので出席しました。Nさんは昭和48年から、Sさんは昭和50年から勤務されていて、なんとNさんは私が入局したのと同じ年から勤務をされていたのです。Sさんも長く医局秘書をされていたので、いまでは岡山大学の中では「ものしり度No1」とのことです。私もまあまあ長く医局にいたのでSさんとの思い出はいくつもありますが、Sさんを巡って(?)私のライバルであった先輩も当日送別会に出席されていて、なんと「惜別の唄」をアカペラで熱唱されました。おかげでその直後の私のスピーチは全く盛り上がらず散々でした。ちなみにその先輩はこの「管理者室より」のNo37に書いている「尊敬する先輩」です。
 年を経ると人との交わりが鬱陶しくなるといいますが、私はかえって楽しく感じています。「一期一会」と言う言葉がかなり現実味を帯びて頭にあって、明日どうなってもいいように今の時間を大切にしようという気持ちになっているのかもしれません。あと何年、このような送別会に出られるのか分かりませんが、これからも人との触れ合いを大切にしていきたいと思っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚


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