ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 病院紹介 > 管理者室より > 管理者室より 2024年度

本文

管理者室より 2024年度

記事ID:0004893 更新日:2024年7月3日更新 印刷ページ表示

 

 

 

No216 えへん虫

新型コロナの感染拡大期にはコロナに罹りませんでしたが、今年の4月、ついに感染してしまいました。コロナが2類相当であった時期には家族以外との会食はなしでしたが、昨年5月に5類に移行してからは家族以外との時々の会食には参加していました。数名の時もあれば100人を超える規模の場合もありましたが、それでも運よくこれまでコロナには感染しませんでした。

しかし、「ワクチンは7回も打ってるし、もう罹ることはあるまい」、と勝手に思っていた4月中旬、病院関連の歓送迎会でついに感染してしまいました。歓送迎会後の週末、やたら咳が出だして、何だろうな?と思いつつ月曜に出勤。いつも通りに病院の出入り口に設置してある自動体温測定器で測定すると36度台(この測定器で本当の体温を検知するのは難しいようです)。若い頃から発熱を自覚しにくい体質でもあり、念のために手持ちの体温計で測ってみると37.8度で、この時初めて「ひょっとして」と思い、いつも早い時間に出勤される呼吸器内科のTドクターを院内ピッチでコールし、来室してもらって状況を説明、「私のグリグリは痛いですよ」と言われながらインフルエンザとコロナ抗原の検査をしてもらい、新型コロナの感染が分かりました。家内からは「帰ってこないで」と言われたので、抗ウイルス薬を内服しつつ借コーポで3~4日過ごし、その後、岡山の自宅に帰りましたが、「帰ってこないで」と言った家内も感染していました。

コロナの症状はさまざまと聞いています。私は、熱は2日間ほど出ましたがたいしたことはなく、咳がよく出て、しかもこれが長く続きました。最初はいなかったように覚えていますが、いつの頃からか突然「えへん虫」が出てくるようになりました。「えへん虫」は場所や時間を選びません。もう治るだろう、もう治るだろうと思っていましたが、1ヵ月経っても治まりません。「えへん虫」が喉の奥、上の方、下の方に出てくると発作的に激しい咳が続きます。咳の合間に「えづき」が現れ、大きな音さえ出てきます。「えへん虫」は私の喉でこれだけ悪いことをしておいて、スッといなくなり、しばらくは平穏が続きます。一日に何回もこれが起こります。止むなく「咳止め」も各種飲んでみましたが、ほとんど効果なく、あえて言えば、病院の副看護部長から頂いた龍角散が即効的な観点からは一番で、6月の議会はその龍角散と私が編み出した腹筋を使った「咳がまん法」でなんとか乗り切ることができました。

「えへん虫」の原因はネットで調べるといろいろあるようです。私はCT検査や喉頭鏡検査を受けましたが、異常なしでした。食道・胃内視鏡検査は毎年受けており逆流性食道炎はありませんし、胸やけもありません。喘息も検査しましたが、異常なし、後鼻漏とやらもありません。結局原因は分からないままでしたが、7月初めに突然「えへん虫」が出てこなくなり、私の咳は治まりました。

新型コロナの咳が1年近く残る人も5%程度あるようです。かなりしんどい思いをしたので、私の喉には二度と現れてほしくはありません。

福山市病院事業管理者 高倉範尚

No215 「卑弥呼」から「まひろ」へ

もう何十年も前のこと、私が子どもの頃には自宅にテレビはなく、晩ごはんを食べた後は、家族でラジオを聴きながらそのうち寝入っていました。しかし小学5年生の頃に家の建て替えをして自分の部屋を与えられ、そのころには漢字も少しは読めるようになっていたので、遅い時間まで父の書斎にあった歴史関係の書物を読んで、次第に歴史好きな子どもになっていきました。

歴史少年も年を経るにしたがって興味のある時代や人物が変わってきます。もちろん、日本から世界へと関心の舞台も変わるかもしれませんが、多くの歴史少年が邪馬台国はどこにあったのだろうか、卑弥呼の墓はどこにあるのだろうか、などと考えを巡らしたでしょうし、信長が本能寺で討たれなければこの国はどうなっていただろうか、と考えたことがあると思っています。私も卑弥呼や信長から始まった普通の歴史少年でしたので、邪馬台国の時代、源平の時代、そして戦国や幕末の時代に興味を持ち、その時代のことやその時代に活躍した人物が書かれた本をよく読みました。

考えてみればNHKの大河ドラマも源平以降の歴史上の人物に焦点をあてた番組が多いと思います。ところが、その大河ドラマ、今年は珍しく平安時代中期が舞台で、主人公は誰もが名前は知っている紫式部(ドラマの中ではまひろ)と藤原道長です。外科医をやっている頃は時間もなく見たくても見られませんでしたが、近年は見ようとは思い、3~4か月の間は視聴するのですが、途中でどこか違う、と思ってしまい、見なくなっていました。今年の「光る君へ」は今のところ毎週見ています。まだ「どこか違う」とは感じていませんが、おそらくそれは私がこの時代についてほとんど知らないからだと思っています。道長の「この世をば」のうたや、紫式部は源氏物語の作者だと知っていても、これまで道長に関する書物を読んだことも、紫式部の日記も読んだことがありませんし、もちろん式部が清少納言の悪口を書き残していたことも知りませんでした。「光る君へ」は創られた話ですが、登場人物の多くは実在した人たちで、話のすべてが虚のドラマではないでしょうし、今のところ興味は尽きません。

そんな私に、4月の中頃、市内に住む後輩から連絡がありました。「ホームパーティを開くので来られませんか。ただ雑談や食べたり飲んだりするのではなく、楽しい話を聴きながら、の会です」とのこと。私はこれまでホームパーティなどに声をかけられたことはありませんし、私の家には家族以外誰も来ることはありません。さて、どんな服装で行けばいいのか、お土産は要らないのか、何人集まるのか、すべて分からないまま5月中頃、そのパーティーに出かけてきました。楽しい会でしたが、集まった人数は後輩夫妻を含めて7人、その中のおひとりが市内にある国立大学附属高校で古典の教師をされていた方で、「光る君へ」をテーマに当時の女流作家の話、そして今に残る日記の話など、話題は尽きることなく、遅くまで楽しい時間を過ごすことができ、いっそう「光る君へ」に惹かれる私になってしまいました。

福山市病院事業管理者 高倉範尚

No214 同窓会あれこれ

2023年5月、新型コロナが5類に移行しました。当初は感染拡大の不安もあったと思いますが、1年が経過した今、世の中は殆どコロナ以前に戻っています。

多くの会議、学会などがコロナを契機に対面からオンラインに切り替わりました。自治体病院関連の会議も東京まで出向くことなくオンラインとなり、県の会議も現地ではなく自分の部屋から参加でき便利になりました。旅費もいらないので助かります。しかし会議はともかく、対面でなければならない(と思う)集まりがいろいろあります。その一つ、「歓迎会」や「同窓会」などが復活しています。これには参加費などの経費はかかりますが、対面でしか味わえない楽しさがあります。

今年の2月、京都市で高校の「京都支部同窓会」が開かれました。私は京都市に住んでいるわけではありませんが、中国地方では高校の同窓会は開かれていないので、時に参加をしています。出席する人はだいたい決まっていて、初めて耳にする話は少ないのですが、会うたびに昔話に花を咲かせています。今年の会は昨年末に亡くなられた恩師を偲ぶ会ともなりましたが、あれこれ話が尽きず、遅い時間の新幹線になりました。

つい先日、学生の頃の下宿屋「マロニエ」(当時は朝食、夕食付きで月8,000円)の同窓会がありました、この下宿屋のことは「管理者室より」のNo3に書いていますので、興味があれば読んでみてください。先日の同窓会は13年ぶりの開催で、遠くは鹿児島、静岡、名古屋などから20人が集まりました。私と同時期に下宿していた人も5人ほど参加していて、さすがに彼らのことは判りましたが、ふさふさしていた頭髪が見当たらなくなっていたり、胃の手術、その後の薬物治療で痩せてしまっていたりで、判りづらくはなっていました。私自身はあまり変わっていないと思っていますが、それでも「声を聞いて分かりました」と言った後輩もいました。この同窓会は定期的に開かれているものではなく、誰かが声をあげない限り開かれませんが、おそらく、今回が最後になると思っています。教養の頃は英語の教官から「高倉くんは死んだのですか?」と心配されるほど講義にも出ず、専門課程が始まってからも、下宿から医学部までの途中の駅前のパチンコ屋に寄り道をして結局講義に出なかったりしていて、よくぞ留年せずに卒業できた、程度の学生でしたが、この「マロニエ」の6年間で、今では目にすることが難しい、とても学生とは思えない多種多彩多能な先輩たちと交わることができて人間的な成長はできたはず、と思っています。

5月中頃には、コロナで1年延びていた「医学部卒後50周年の同窓会」があります。40人程度の出席と聞いていますが、ここでもきっと昔話に話が咲くと思います。この同窓会も次第に参加者が減ってきて、やがて最後の会の日がくるでしょうが、そこまで元気でいられたら、と思っています。でも、真面目な学生生活を送った、とは言い難い身としては、さすがに厚かましいでしょうね。

福山市病院事業管理者 高倉範尚

No213 初期臨床研修医へのエール

この国の初期臨床研修制度は2004年(平成16年)から必修化されました。それまでの医学生は卒業と同時に自分が進みたい診療科を選択し、多くの人が大学の医局に入局し、一定期間の臨床修練の後(私の所属した医局では4か月)、関連病院に派遣されていくのが常でした。私は消化器外科医になりたいと思い外科学教室に入局したので、他の診療科の組織的な研修を全く受けたことがありません。私が外科研修を行っていた頃は麻酔科医はまだ少なく、大学などの大病院を除けば、外科医が手術の全身麻酔を担当していました。ただ、この麻酔も先輩外科医から麻酔の技術を教わる程度で、今から思えばずいぶん怖いことをやっていた、と思っています。

国は従来の研修制度では幅広く患者さんを診ることが出来る医師の養成が難しいこと、などから2年間の新しい研修制度を発足させ、このなかで、内科や外科、救急、小児科、産婦人科、精神科、地域医療の研修を必修化しました。当時、医師の臨床研修の必修化に当たっては、「医師としての人格を涵養し、プライマリ・ケアの基本的な診療能力を修得するとともに、アルバイトをすることなく研修に専念できる環境を整備すること」を基本的な考え方として制度が構築されました。この研修制度が発足した当時は、少なくとも2年の間は各大学医局に入局してくる医師がいなくなり、大学病院の医師不足が深刻となったため、関連病院に派遣していた医師を大学に引き上げたりしたので、地域の病院から医師がいなくなり、地域医療に混乱も生じました。当院もこの時、産婦人科医が引き上げ、以後4年数か月の間、産婦人科の入院診療が出来なくなりました。この初期臨床研修制度は必修科目に変遷はありましたが、現在も続いており、何よりもこの制度が始まって以降、研修医は研修先として大学病院ではなく、市中の臨床研修病院を選択するようになり、以前に比べて大学医局に入局する医師が減り、大学の地域の病院に対する医師派遣機能が弱まってきたと思われ、それはそれで深刻な問題だと考えています。

福山市民病院の初期臨床研修医は制度の発足した2004年はわずか2名でしたが、その後は研修医の数も増え、2024年3月に当院で研修を修了した研修医は14名(もともとの当院採用の研修医11名、大学からのたすき掛け研修医など3名)で、3月初めの研修医症例発表会では、それぞれが渾身の素晴らしい症例発表をしてくれました。彼らの研修成果は当院の研修医が毎年受けている基本的臨床能力評価試験(GM-ITE)でも証明されています。当院の研修医は1年次に比べ2年次の成績が格段に上がっており、それぞれの努力に加え、当院の研修環境もその一因ではないかと感じています。

14名の初期研修医のうちの5名は4月からも当院で専攻医として勤務・研修を続けますが、他の施設で研修を開始する人も含めて、彼らが患者さんから信頼される医師となり、それぞれの場所で活躍してくれることを心から願っています。

福山市病院事業管理者 高倉範尚


診療受付時間
8時30分から11時30分
患者さん及びご家族の皆さまへのお願い
※当院は原則予約制です。初診はかかりつけ医で予約を取り、紹介状をお持ちください。
外来診療日
月曜日から金曜日
祝日・年末年始を除く