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管理者室より 2024年度
No221 東京で「界隈」を歩く
司馬遼太郎さんが「街道をゆく」というシリーズを書かれています。国内では北海道から沖縄まで、海外はアイルランド、オランダ、モンゴルなどを巡られて、その風土と人々の暮らしを綴られています。私はこのシリーズのファンで最近また読み返しています。この「街道をゆく」シリーズのそれぞれのタイトルは「○○紀行」、「○○街道」、「○○のみち」、「○○路」、「○○界隈」などとなっていて、司馬さんは「人の往来する場所(ミチ)」を使い分けられています。私は感覚として少しは分かっているつもりですが、正解かどうかは知りません。
さて、「界隈」についてです。最近、この「界隈」が話題になっていて、11月初めに発表された2024年の流行語大賞の候補の言葉にノミネートされました。候補の言葉を調べてみましたが、全く耳にしたこともない言葉がいくつもありました。「界隈」の意味は勿論知ってはいますが、いわゆるZ世代がこれまでの常識を超えた「界隈」を拡散させているようです。人が言葉を手に入れて以来、その意味や使われ方が変わってきたことは事実であって、「そのあたり一帯、付近」というよく知る「界隈」からZ世代の理解し難い「界隈」への変化は仕方がないと思っています。
「街道をゆく」のシリーズには「界隈」のタイトルが入る著書が2冊あり、一つが「本郷界隈」、一つが「神田界隈」でどちらも東京です。「界隈」というタイトルで、なんとなく、どんどん新しくなっている東京、というよりも、限られた地域で江戸や明治を思わせる何かがひっそりと残っていそうな雰囲気を感じてしまいます。私は先日その東京へ2泊3日で出かけてきました。出席した会では旧友と顔を合わすこともできてよかったのですが、なるべく安くすませたい、と長男家族が暮らす世田谷の官舎に泊まらせてもらいました。
長男は私が土日には朝ウォーキングしていることを知っているので、「オヤジ、みんなで朝歩こう」と提案してきました。私は無論、「いいよ!」です。二日目の朝は孫二人を含めて4人で世田谷公園を出発して、三軒茶屋から駒場方面を目指しました。途中、50年以上前に親友が下宿していて訪れたことのある太子堂辺りを通り、下の孫が通っているという塾や上の孫が通っている中学校も見てきました。途中、どう見ても暗渠の上としか思えない、こじゃれた散歩道があり、その道を少し進むと散歩道の両サイドに「○○橋」と書かれた古げな石柱を発見できて、なんとなく東京の「界隈」を歩いた、という気持ちになりました。三日目の朝は家内の勧めで代官山の美空ひばりさんの記念館、目黒川のほとりを歩きましたが、こちらは前日ほどの「界隈感」を感じませんでした。
東京に限らず知らないところに行くことがあれば、風情ある「界隈」を探して歩くことも楽しいのではないか、と思えた1年ぶりの東京でした。
福山市病院事業管理者 高倉範尚
No220 院内コンペ
今回は院内のゴルフコンペのことを書いてみたいと思います。ゴルフコンペは仕事か遊びか、と言われればもちろん遊びです。遊びのことを書いて良いものかどうか、以前から答えを保留にしていたのですが、まずは院内においてこんな集まりを知ってもらいたい、仲間を増やしたい、と思って書くことにしました。
この病院は1977年に開院しましたが、実はこの病院の院内コンペは開院して間もなく始まりました。私は当時在籍していて第1回のコンペから参加しましたが、毎回、当時の院長を始め、医師や医療技術職、事務職の人たち、またプロパーと呼ばれていた製薬会社の人たちが多数参加され賑やかで楽しいコンペでした。製薬会社の人たちにはゴルフ場の予約(当時はゴルフ場まで出向いて予約を取る必要がありました)や会場までの景品の運搬などをお願いしていましたが、決して景品代を持ってもらうようなことは一切行ってはいません。しかし、医療現場と製薬会社の馴れ合いなども社会問題化してきて、次第に院内コンペは病院内部の人だけで行われるようになりました。
私は開設当時の3~4年間はコンペに参加していましたが、大学に帰局した後は忙しくなり参加しなくなりました。あとで聞いた話ですが、この病院の院内コンペには看護師さんも多数参加したり、年を経るごとにOBの参加者も増えて賑やかになり、ラウンド後の表彰式は同窓会のように盛り上がったようです。しかし、さらに時は流れ、職員の皆さんの休日の過ごし方も多様化してきて、院内からの参加者が激減し、やがてコンペは開かれなくなり、辛うじて病院OBの人だけで1年に1回、歳末コンペが開かれていたそうです。
2009年1月に私は再びこの病院に赴任してきました。病院は若い医師が多く、誰もが忙しく仕事をしていましたが、医局や病院の忘年会などに加えて、職種横断的に職員が楽しめる集まりがあってもいいのではないかと思っていた2010年、医学生ながらもプロゴルフファーの試験にチャレンジした経験のあるT君が初期研修医として当院にやってきました。やはり、人が集まり何かをしようというときには責任を持って汗をかく人が必要です。T君に院内コンペを再開しようと声をかけ、2010年の秋に途絶えていたコンペを再開させました。T君はまさに適任で、研修医としての研修もしっかり行いつつ、年2回の病院コンペの基本の形を作ってくれました。この病院のコンペ名は「福山市民病院 The Open」といいます。彼がいつか競技者として参加したいと思っていたであろう名前にしています。
「The Open」はコロナの時期は開いていませんでしたが、昨年秋から再開し、この10月、復活後22回目の会を開催しました。今回の参加者は26人と少数でしたが、研修医を含む若手医師、OB医師、医療技術部(薬剤科、臨床検査科、放射線科、リハビリテーション科)、事務系職員の現役、OBなどが参加しました。もちろん女性もいます。夜は一層の親睦を図るために市内の食事処で表彰式を兼ねて打ち上げを行い、大いに盛り上がりました。人との交わりは続けていくことに意義があり、次第に絆も深まっていきます。現在の幹事は薬剤科のI君ですが、長くこの会を続けていってほしいと思っています。
福山市病院事業管理者 高倉範尚
No219 神戸市のタワマン規制
先日、新聞を読んでいて「まちの未来を考える」という記事に目が留まりました。
2005年(平成17年)頃から、この国はすでに人口減少社会に突入していますが、そのような中でもタワマンの建設は進んでおり、2023年末で国内には1,515棟のタワマンがあるそうです。実はこの福山市でも最近、高層のマンションが建ちました。そもそもタワマンとは?私は定義を知らなかったので調べたところ、法的な決まりはないようですが、高さ60m以上の高層マンションのことを言うらしく、その高さ60mが20階程度に相当するので、20階以上の高層マンションがタワマンということになるそうです。
記事にはタワマンの建設に対して、神戸市が2020年から規制をかけている、と書かれていました。詳細は省きますが、神戸市の繁華街であるJR三ノ宮駅周辺および神戸駅から新神戸駅に至る計300ヘクタールを超える市街地でのタワマンの建設規制を打ち出し、現在に至っているようです。神戸市長は新聞のインタビューで、「人口が増え続ける時代の価値観を引きずり、政策を漫然と続けてはいけない。この国の総住宅数は50年ほど前から世帯数を上回っており、全体の住宅数はもう十分だ。住宅をどんどん建設することは将来の廃棄物を作っていること」と述べておられます。神戸市の試みが正しい選択となるのかどうか分かりませんが、アンケートに答えた読者の意見でも「タワマンはかつてのニュータウンを縦長にしただけ。ほぼ同じ年齢層で構成された街の行き着く先は明らかだ」、とか「タワマン建設は負の遺産を残すことだ」などの神戸市に肯定的な意見が多くありました。
この国の人口は2004年12月の1億2,784万人をピークに減少局面に入り、2024年4月1日現在で1億2,400万人となっています。タワマンを購入する人は何歳代の人が多いのか知りませんが、40歳前後で購入した人が定年を迎えるであろう2050年頃のこの国の人口は9,515万人と、3,200万人以上減ることが予測されており、それなりに老朽化してくるタワマンに先住の方がいなくなった後、居住を希望する人が続くのかどうか、確かに考えさせられます。
私は一戸建ての住宅を1988年に建てましたが、家のことは家内に任せ、仕事に明け暮れ、家には週末に帰るだけ、という生活を送ってきました。両親が10年少し前に亡くなった後、故郷には帰らないことを決め、「そっくりさん」で自宅をリフォームしました。長男は東京での生活に馴染んでいるように見え、次男は近くに居住していますが昨年中層マンションの一室を購入するなど、私の家はこの先どうなるのかな?と思っていましたが、先日長男のお嫁さんから「お母さん、家はそのままにしておいてください、私帰りますから」と電話があったと聞きました。後に続いてくれる人がいて悩みを冥土まで引きずらずにすみそうで、ホッとしています。
福山市病院事業管理者 高倉範尚
No218 絶滅危惧種
絶滅危惧種の定義は「現在の状態をもたらした圧迫要因が引き続き作用すれば、その存続が困難なもの」とウィキペディアには書かれています。要は絶滅の恐れのある生物種のことで、日本ではイリオモテヤマネコやトキ、コウノトリなどがそうです。
この「絶滅危惧」というワード、われわれの業界でもしばしば目にします。私が医師になった1973年のこの国の医師数は126,327人だったそうですが、約50年経った2022年では343,275人と2.7倍に増加しています。これは、1970年代に入り、国が新しく医科大学を開設してきたことや医学部の定員増などを行ってきた結果であり、医師数だけをみれば、医師は十分いるのではないか、ということになります。私は長く消化器外科医をやってきました。これまで勤務してきた病院の外科医は3人から多いところでは20人ほどいましたが、医師数に関係なくどの病院も忙しいことに変わりはありませんでした。これだけ医師数が増えてもこの国ではまだ医師が足りていません。数は増えても地域や診療科による偏在があるのです。
さて、われわれの業界の「絶滅危惧種」ですが、「外科医」と言われています。一時は産婦人科医も減っていると言われていましたが、学会をあげて医学生に支援を行ったり、事故が起こった際の保障制度を作ったりして少しずつ増加もしているようですが、外科医は減少傾向に歯止めがかかっていないようです。私が所属している消化器外科学会では、現在約16,000人いる65歳以下の会員数が10年後には26%減少し11,900人に、20年後には50%減少し8,000人になると予測されています。外科医が半減すると果たしてこの国の外科医療はどうなっていくのでしょうか。最近、術者一人ですべての操作ができるロボット手術支援装置も出てきたようですが、このような機器の普及がさらに外科医離れを起こすのではないか、と思ったりもしています。ワンマン手術が普及しても、いったんその手術で何か不都合なことが起これば、必ず外科チームの力が必要になります。つまり、外科医は要らない、とはならないのです。
外科は以前から3K(危険、きつい、汚い)の代表的な診療科とされてきました。それ以外に、専門医資格を取得するまで時間がかかる、給与が勤務量に見合っていない、などが外科医減少の理由に挙げられています。したがって、絶滅危惧種「外科医」を絶滅させないためには、その原因となった圧迫要因を取り除く必要がある、ということになります。私の病院の外科はがん医療や救急医療を中心に医療を行っていますが、がん医療はともかく、救急医療は時を選べません。夜間の緊急手術に従事した外科医が翌日の診療や予定手術に参加せざるを得ない現状もあります。消化器外科学会のロードマップには高度ながん手術の集約化・重点化も謳われていますが、業務量に見合った医師数が確保されずに集約化が進めば、外科医の3Kはさらに進み、地域の医療は崩壊するのではないか、と思っています。
福山市病院事業管理者 高倉範尚
No217 楽しい集まり
この「管理者室より」は月の初めの頃に読んでもらえるように、病院の広報室に原稿を渡しています。書く内容をあらかじめ決めていることは少なく、最後の1週間くらいの間に「えいやっ」と絞り出す場合がほとんどです。なかなか絞っても出てこない場合には、「ひと月飛ばそうか」と思ったりもしますが、「いや、いや」と心の中でうち消して、どうにか絞り出しています。7月はいろいろやらなければいけないことが多く、まさにmaxで絞り出したところです。しかし、こんな「管理者室より」でも、読んでくれている職員がいて、先日も院内で通りすがりの看護師さんが、「楽しみにしています」と、言ってくれました。文章を読むことで、私を少しでも知ってくれたり、何かのモチベーションにつながるのなら、こんなに嬉しいことはありません。
さて、本題の「楽しい集まり」です。コロナの間は中断もありましたが、私には決まって集まる会がいくつかあります。1年に1回から、毎月の集まりまで、どれも基本的には楽しい集まりです。アクティビティを伴うものはありますが、音楽を聞いたり、奏でたり、といった文化的な集まりは一切ありません。私の集まりは、多くは飲食を伴います。男性ばかりの会もあれば、女性も参加の会もあります。医療関係の人との集まりが多いのは仕事柄仕方ないですが、医療関係者は私だけ、という集まりもあります。勉強の会はありませんが、話をすることが勉強になっている、そんな会もあります。集まる人の年齢は高齢者が多く、それなりに若い人たちが集まる会でも、私以外は50歳くらいの人たちだと思います。
そんな会のなかの一つに、毎月1回集まり、B級グルメをよく冷えたビールとともに楽しむ会があります。集まる店は平成の初め頃、市内の今とは別の病院に勤務していたころから若い人を連れてよく行った店で、10数年前に福山に帰ってきてからまた通いだしました。この会のことを「ブタの会」と言っていますが、決してブタに似ている人が集まっている会ではなく、この店の「ブタキムチ」が絶妙に美味しいので、それを食べる会、との意味です。毎回、注文する料理はほとんど決まっていて、さっと食べて、さっと帰る、が原則です。メンバーは、かつて一緒に仕事をしていた人、今も一緒に仕事をしている人たちで、職種はいろいろですが、外から見ると今の病院はどう見えるのか、どこかおかしくなってはいないか、そんなことを聞くのはタメになります。私がよいと思っていることに対しても遠慮なく異見を言ってもらえるのでありがたいです。聞きたくない話が本当に聞こえなくなれば組織はだめになると思っています。言ってもらえなければ何も分からず何も変わりません。
この会、会則はありませんが、原則第一火曜日に集まります。場所や店名を書くことは利益誘導になるので出来ませんが、鉄板を焼けばこんな音が出そうな名前です、、、「はて?」。
福山市病院事業管理者 高倉範尚
No216 えへん虫
新型コロナの感染拡大期にはコロナに罹りませんでしたが、今年の4月、ついに感染してしまいました。コロナが2類相当であった時期には家族以外との会食はなしでしたが、昨年5月に5類に移行してからは家族以外との時々の会食には参加していました。数名の時もあれば100人を超える規模の場合もありましたが、それでも運よくこれまでコロナには感染しませんでした。
しかし、「ワクチンは7回も打ってるし、もう罹ることはあるまい」、と勝手に思っていた4月中旬、病院関連の歓送迎会でついに感染してしまいました。歓送迎会後の週末、やたら咳が出だして、何だろうな?と思いつつ月曜に出勤。いつも通りに病院の出入り口に設置してある自動体温測定器で測定すると36度台(この測定器で本当の体温を検知するのは難しいようです)。若い頃から発熱を自覚しにくい体質でもあり、念のために手持ちの体温計で測ってみると37.8度で、この時初めて「ひょっとして」と思い、いつも早い時間に出勤される呼吸器内科のTドクターを院内ピッチでコールし、来室してもらって状況を説明、「私のグリグリは痛いですよ」と言われながらインフルエンザとコロナ抗原の検査をしてもらい、新型コロナの感染が分かりました。家内からは「帰ってこないで」と言われたので、抗ウイルス薬を内服しつつ借コーポで3~4日過ごし、その後、岡山の自宅に帰りましたが、「帰ってこないで」と言った家内も感染していました。
コロナの症状はさまざまと聞いています。私は、熱は2日間ほど出ましたがたいしたことはなく、咳がよく出て、しかもこれが長く続きました。最初はいなかったように覚えていますが、いつの頃からか突然「えへん虫」が出てくるようになりました。「えへん虫」は場所や時間を選びません。もう治るだろう、もう治るだろうと思っていましたが、1ヵ月経っても治まりません。「えへん虫」が喉の奥、上の方、下の方に出てくると発作的に激しい咳が続きます。咳の合間に「えづき」が現れ、大きな音さえ出てきます。「えへん虫」は私の喉でこれだけ悪いことをしておいて、スッといなくなり、しばらくは平穏が続きます。一日に何回もこれが起こります。止むなく「咳止め」も各種飲んでみましたが、ほとんど効果なく、あえて言えば、病院の副看護部長から頂いた龍角散が即効的な観点からは一番で、6月の議会はその龍角散と私が編み出した腹筋を使った「咳がまん法」でなんとか乗り切ることができました。
「えへん虫」の原因はネットで調べるといろいろあるようです。私はCT検査や喉頭鏡検査を受けましたが、異常なしでした。食道・胃内視鏡検査は毎年受けており逆流性食道炎はありませんし、胸やけもありません。喘息も検査しましたが、異常なし、後鼻漏とやらもありません。結局原因は分からないままでしたが、7月初めに突然「えへん虫」が出てこなくなり、私の咳は治まりました。
新型コロナの咳が1年近く残る人も5%程度あるようです。かなりしんどい思いをしたので、私の喉には二度と現れてほしくはありません。
福山市病院事業管理者 高倉範尚
No215 「卑弥呼」から「まひろ」へ
もう何十年も前のこと、私が子どもの頃には自宅にテレビはなく、晩ごはんを食べた後は、家族でラジオを聴きながらそのうち寝入っていました。しかし小学5年生の頃に家の建て替えをして自分の部屋を与えられ、そのころには漢字も少しは読めるようになっていたので、遅い時間まで父の書斎にあった歴史関係の書物を読んで、次第に歴史好きな子どもになっていきました。
歴史少年も年を経るにしたがって興味のある時代や人物が変わってきます。もちろん、日本から世界へと関心の舞台も変わるかもしれませんが、多くの歴史少年が邪馬台国はどこにあったのだろうか、卑弥呼の墓はどこにあるのだろうか、などと考えを巡らしたでしょうし、信長が本能寺で討たれなければこの国はどうなっていただろうか、と考えたことがあると思っています。私も卑弥呼や信長から始まった普通の歴史少年でしたので、邪馬台国の時代、源平の時代、そして戦国や幕末の時代に興味を持ち、その時代のことやその時代に活躍した人物が書かれた本をよく読みました。
考えてみればNHKの大河ドラマも源平以降の歴史上の人物に焦点をあてた番組が多いと思います。ところが、その大河ドラマ、今年は珍しく平安時代中期が舞台で、主人公は誰もが名前は知っている紫式部(ドラマの中ではまひろ)と藤原道長です。外科医をやっている頃は時間もなく見たくても見られませんでしたが、近年は見ようとは思い、3~4か月の間は視聴するのですが、途中でどこか違う、と思ってしまい、見なくなっていました。今年の「光る君へ」は今のところ毎週見ています。まだ「どこか違う」とは感じていませんが、おそらくそれは私がこの時代についてほとんど知らないからだと思っています。道長の「この世をば」のうたや、紫式部は源氏物語の作者だと知っていても、これまで道長に関する書物を読んだことも、紫式部の日記も読んだことがありませんし、もちろん式部が清少納言の悪口を書き残していたことも知りませんでした。「光る君へ」は創られた話ですが、登場人物の多くは実在した人たちで、話のすべてが虚のドラマではないでしょうし、今のところ興味は尽きません。
そんな私に、4月の中頃、市内に住む後輩から連絡がありました。「ホームパーティを開くので来られませんか。ただ雑談や食べたり飲んだりするのではなく、楽しい話を聴きながら、の会です」とのこと。私はこれまでホームパーティなどに声をかけられたことはありませんし、私の家には家族以外誰も来ることはありません。さて、どんな服装で行けばいいのか、お土産は要らないのか、何人集まるのか、すべて分からないまま5月中頃、そのパーティーに出かけてきました。楽しい会でしたが、集まった人数は後輩夫妻を含めて7人、その中のおひとりが市内にある国立大学附属高校で古典の教師をされていた方で、「光る君へ」をテーマに当時の女流作家の話、そして今に残る日記の話など、話題は尽きることなく、遅くまで楽しい時間を過ごすことができ、いっそう「光る君へ」に惹かれる私になってしまいました。
福山市病院事業管理者 高倉範尚
No214 同窓会あれこれ
2023年5月、新型コロナが5類に移行しました。当初は感染拡大の不安もあったと思いますが、1年が経過した今、世の中は殆どコロナ以前に戻っています。
多くの会議、学会などがコロナを契機に対面からオンラインに切り替わりました。自治体病院関連の会議も東京まで出向くことなくオンラインとなり、県の会議も現地ではなく自分の部屋から参加でき便利になりました。旅費もいらないので助かります。しかし会議はともかく、対面でなければならない(と思う)集まりがいろいろあります。その一つ、「歓迎会」や「同窓会」などが復活しています。これには参加費などの経費はかかりますが、対面でしか味わえない楽しさがあります。
今年の2月、京都市で高校の「京都支部同窓会」が開かれました。私は京都市に住んでいるわけではありませんが、中国地方では高校の同窓会は開かれていないので、時に参加をしています。出席する人はだいたい決まっていて、初めて耳にする話は少ないのですが、会うたびに昔話に花を咲かせています。今年の会は昨年末に亡くなられた恩師を偲ぶ会ともなりましたが、あれこれ話が尽きず、遅い時間の新幹線になりました。
つい先日、学生の頃の下宿屋「マロニエ」(当時は朝食、夕食付きで月8,000円)の同窓会がありました、この下宿屋のことは「管理者室より」のNo3に書いていますので、興味があれば読んでみてください。先日の同窓会は13年ぶりの開催で、遠くは鹿児島、静岡、名古屋などから20人が集まりました。私と同時期に下宿していた人も5人ほど参加していて、さすがに彼らのことは判りましたが、ふさふさしていた頭髪が見当たらなくなっていたり、胃の手術、その後の薬物治療で痩せてしまっていたりで、判りづらくはなっていました。私自身はあまり変わっていないと思っていますが、それでも「声を聞いて分かりました」と言った後輩もいました。この同窓会は定期的に開かれているものではなく、誰かが声をあげない限り開かれませんが、おそらく、今回が最後になると思っています。教養の頃は英語の教官から「高倉くんは死んだのですか?」と心配されるほど講義にも出ず、専門課程が始まってからも、下宿から医学部までの途中の駅前のパチンコ屋に寄り道をして結局講義に出なかったりしていて、よくぞ留年せずに卒業できた、程度の学生でしたが、この「マロニエ」の6年間で、今では目にすることが難しい、とても学生とは思えない多種多彩多能な先輩たちと交わることができて人間的な成長はできたはず、と思っています。
5月中頃には、コロナで1年延びていた「医学部卒後50周年の同窓会」があります。40人程度の出席と聞いていますが、ここでもきっと昔話に話が咲くと思います。この同窓会も次第に参加者が減ってきて、やがて最後の会の日がくるでしょうが、そこまで元気でいられたら、と思っています。でも、真面目な学生生活を送った、とは言い難い身としては、さすがに厚かましいでしょうね。
福山市病院事業管理者 高倉範尚
No213 初期臨床研修医へのエール
この国の初期臨床研修制度は2004年(平成16年)から必修化されました。それまでの医学生は卒業と同時に自分が進みたい診療科を選択し、多くの人が大学の医局に入局し、一定期間の臨床修練の後(私の所属した医局では4か月)、関連病院に派遣されていくのが常でした。私は消化器外科医になりたいと思い外科学教室に入局したので、他の診療科の組織的な研修を全く受けたことがありません。私が外科研修を行っていた頃は麻酔科医はまだ少なく、大学などの大病院を除けば、外科医が手術の全身麻酔を担当していました。ただ、この麻酔も先輩外科医から麻酔の技術を教わる程度で、今から思えばずいぶん怖いことをやっていた、と思っています。
国は従来の研修制度では幅広く患者さんを診ることが出来る医師の養成が難しいこと、などから2年間の新しい研修制度を発足させ、このなかで、内科や外科、救急、小児科、産婦人科、精神科、地域医療の研修を必修化しました。当時、医師の臨床研修の必修化に当たっては、「医師としての人格を涵養し、プライマリ・ケアの基本的な診療能力を修得するとともに、アルバイトをすることなく研修に専念できる環境を整備すること」を基本的な考え方として制度が構築されました。この研修制度が発足した当時は、少なくとも2年の間は各大学医局に入局してくる医師がいなくなり、大学病院の医師不足が深刻となったため、関連病院に派遣していた医師を大学に引き上げたりしたので、地域の病院から医師がいなくなり、地域医療に混乱も生じました。当院もこの時、産婦人科医が引き上げ、以後4年数か月の間、産婦人科の入院診療が出来なくなりました。この初期臨床研修制度は必修科目に変遷はありましたが、現在も続いており、何よりもこの制度が始まって以降、研修医は研修先として大学病院ではなく、市中の臨床研修病院を選択するようになり、以前に比べて大学医局に入局する医師が減り、大学の地域の病院に対する医師派遣機能が弱まってきたと思われ、それはそれで深刻な問題だと考えています。
福山市民病院の初期臨床研修医は制度の発足した2004年はわずか2名でしたが、その後は研修医の数も増え、2024年3月に当院で研修を修了した研修医は14名(もともとの当院採用の研修医11名、大学からのたすき掛け研修医など3名)で、3月初めの研修医症例発表会では、それぞれが渾身の素晴らしい症例発表をしてくれました。彼らの研修成果は当院の研修医が毎年受けている基本的臨床能力評価試験(GM-ITE)でも証明されています。当院の研修医は1年次に比べ2年次の成績が格段に上がっており、それぞれの努力に加え、当院の研修環境もその一因ではないかと感じています。
14名の初期研修医のうちの5名は4月からも当院で専攻医として勤務・研修を続けますが、他の施設で研修を開始する人も含めて、彼らが患者さんから信頼される医師となり、それぞれの場所で活躍してくれることを心から願っています。
福山市病院事業管理者 高倉範尚