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管理者室より 2023年度
No212 まちが消える-その2-
2015年の夏、このコーナーに「No 96まちが消える」を書きました。この前の年に日本創生会議が、全国の自治体で20歳から39歳の女性の数が30年間で半減する可能性がある自治体は消滅の可能性があり、その数は896市区町村にのぼる、と報告した記事を読んで書いたものです。
まちが消えたら大変なことですが、交通や食、地域の働き手、学校、医療などが手の届かないところへ行ってしまえば、消える以外にないかもしれません。この記事が出たあと政府は人口減対策を盛り込んだビジョンと総合戦略を自治体に求めましたが、これが地域間競争になってしまったこと、例えば、短期的に人口増の成果を出すには「社会増」を狙うことが早いため、自治体同士が人の奪い合いをしたこと、などで、今の深刻な状況になっているようです。
先日、2023年の出生数が報告されました。75万8,631人です。8年連続して過去最少値を更新しています。婚姻の数は48万9,281組 で90年ぶりに50万を下回ったとありました。私の生まれた1947年の出生数は267万9,000人だったそうで、今の出生数と比べると驚きの数です。そして2023年の死亡者数は159万人ほどで、なんと1年で83万人の人口が減っています。この数、大阪府堺市の人口と同等です。
国に人口戦略会議という会議体があるようで、この会議が今年1月、国の人口目標を2100年に8,000万人で安定させること、と打ちだしました。この会議の副議長の増田寛也氏によると、東京が人を吸い込んで出生率を下げるブラックホールだと言っています。東京一極集中が止まっていない現状では、東京が本気を出して出生率を上げないと国全体としての効果が出ない段階になっていると強く警鐘を鳴らしています。自治体に任せるのではなく、国が司令塔になって目配りをしなければいけない、とも言われています。
ちょうど今、福山市議会も議会の真っただ中ですが、「人口減」についても盛んに討論されています。劇的な解決策を探ることは厳しいと思いますが、議員さんも市長をはじめ役所の方々も想いは同じだと思います。岸田首相の「異次元の少子化対策」、掛け声は聞こえますが、異次元かどうか、私にはまだ異次元の手前ではないかと思えます。増田さんがお茶の水女子大に通う学生と人口問題ついて議論をされたそうですが、彼女たちは子どもを持つことはリスクである、果たして子どもを幸せにできるのか、教育費はどれだけかかるのか、子どもを持つことで自分のキャリア形成の時間が奪われる、など多くの懸念を感じていたようです。国の人口を2100年に8,000万人で安定させるためには、「本気の異次元の対策」に加えて、これらの懸念を気にしなくて済む社会づくりも大切ではないかと感じました。
福山市病院事業管理者 高倉範尚
No211 小さな池の大魚効果
1月の中頃、「校内順位、中学受験との関係は」という面白そうな新聞の見出しに目がとまりました。
心理学には「小さな池の大魚効果」という理論があって、個人の学業レベルが同程度である場合、所属している学校の学業レベルの高低が個人の有能感に影響を与える現象のことをこう言うらしいです。本来は同じ能力であっても同級生の学力が高い学校に通う生徒は、低い学校に通う生徒よりも「自分は勉強ができない」という自己概念を持ってしまうそうです。海外にはこの理論を裏付ける研究は多くあるそうですが、日本ではこれまでなく、このたび慶応大学の研究チームが埼玉県の公立小・中学校に通う小学校4年生から中学校3年生を対象に実施された「学力・学習状況調査」のデータを分析して、この理論を「日本における『小さな池の大魚効果』―校内順位の高さは学力向上をもたらすか」というタイトルで論文として発表された、と書かれていました。
そして、その研究の結果ですが、同程度の学力であっても小学生のときの学校内での相対順位の高い子のほうが、中学生になったときの学力が高く、自己効力感(有能感)も高くなることが統計的に有意な差で確認できたということでした。
研究結果を踏まえると、志望校を選ぶ際は、高い偏差値の学校に進み、校内の順位が下がるよりも、そこそこの学校で校内順位が上にいるほうが良い、ということになりますが、この研究をまとめた著者によると、学校という環境が子どもたちに及ぼす影響にはさまざまなものがあり、個人によって受ける影響の度合いも異なるので所属する学校について心配する必要はない、とのことです。
私も以前から、たまたま名門校に入学できたとしても周りに秀才ばかりいたのでは、自信もなくなり、その人のその後にはあまりよくないのではないか、と思っていました。「鶏口となるも牛後となるなかれ」です。そういう意味では、私は恵まれていたかもしれません。私の出身地である京都府では、「15の春は泣かさない」という目標を掲げ、学校間の格差を作らず、高校受験で不合格者を出さないことが政策目標で、進学が可能な公立高校の普通科は、生まれた地域ごとに1校のみ、と決まっていました。そんな高校のクラスは半数以上が就職するようなクラスだったので、確かに私も高校時代は「有能感」を感じていたかもしれません。私には今年、中学受験をする孫がいますが、この新聞記事や私自身の経験から、ほどほどのところに進んでくれたら十分、という気になっています。
この記事には知らなかったことが他にも書いてありました。難関の中高一貫校に入ったものの成績が低迷し、そのまま浮上しない生徒を「深海魚」と呼ぶそうです。このようなことになったら大変です。でも、安心してください。対処法はあるようで、テストを行った際に点数だけを伝えるのではなく、学力の伸びについても伝えることで、意欲や成績が上がることが確認されているそうです。原文は以下を参照してください(https://doi.org/10.1016/j.jebo.2021.04.004<外部リンク>)。
福山市病院事業管理者 高倉範尚
No210 能登半島地震
1月1日の午後、何気なくつけていたTVの場面が急に変わり、能登半島で大きな地震が起きたこと、そして津波警報や注意報が日本海沿岸に出ていることの連呼が始まりました。私は感じませんでしたが、岡山でも揺れを感じたようで、調べてみると南区では震度3の揺れがあったようです。この国は火山大国、地震大国であり、地震が起きるのは仕方がない、地震は防ぎようがない、とは思いますが、なぜ多くの人の命が奪われなければならないのか、残念でなりません。
私の生まれた京都府北部も1927年(昭和2年)3月に、奇しくも今回の能登半島地震と同じマグニチュード7.3の北丹後地震が発生し、2,925人の方々が亡くなられました。地元のお寺には亡くなられた方々を悼んだ供養塔がありました。父は当時小学校1年生だったようですが、この地震の話を幾度か聞かせてくれました。当然、大きな地震が起きた地域ですから、私が子どもの頃も揺れを体感できる程度の地震は何度もあり、揺れを感じたらとにかく一目散で屋外へ逃げていました。地震は怖い、ということがしみ込んでいたと思っています。
高校を卒業し、岡山で学生生活を送り、その後は岡山県、広島県で仕事をしてきました。岡山県も広島県も県南部は比較的地震の発生頻度は少なく、年に1回~3回程度、震度も1~2程度が多いようで、とりわけ岡山県南部を震源とする地震発生頻度は年に1回起きるかどうか、のようですが、そんな岡山で驚くほど揺れた地震が、1995年(平成7年)1月17日の阪神・淡路大震災でした。この地震で目にした崩れた高架の高速道路から落ちそうになったバス、倒壊した家屋、そして燃え尽きるまで燃えた長田の火災、これらの映像は子どもの頃に父から聞いた恐ろしい地震、そのものでした。2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災の津波の映像もリアルタイムで目にしましたが、今でも、次から次に家が流されていく凄まじい津波の映像は目に焼き付いています。その後も2016(H28)年の熊本地震、2018(H30)年の北海道胆振東部地震などで犠牲者がでていますが、穏やかな日常が一瞬で消えてしまう恐ろしい現実、誰がそんな現実を予測できるでしょうか。今回の能登半島地震でも年末年始を実家で過ごそうと、子どもたちや孫たちが集まり、家族の団欒を楽しんでいる最中(さなか)に大きな揺れが起こり、逃げる間もなく家屋が倒壊し、亡くなられた方が多くおられたようです。さぞや無念だったと思いますが、どんな言葉であれ、かけることを憚られる思いでいます。
私の勤める病院からも1月11日に能登へ向けてDMATが出動しました。この後も2月初めにJMATが出動します。また自治体病院協議会からの呼びかけに応じて看護師も派遣予定です。私たちの力は小さな力ですが、想いを能登へ届けたいと思います。「頑張れ!能登!」。
福山市病院事業管理者 高倉範尚
No209 国の行く末
昨年5月、3年余り続いたコロナが5類に移行しました。移行後に新型コロナの患者さんが増えてくれば違ったのでしょうが、人がいろいろな場所に自由に移動しても感染の拡大は殆ど見られず、海外からの観光客もコロナ前に戻るなど、世の中の状況は一変しました。病院でもコロナの間は自粛していた忘年会や、地域の医療機関の皆さんとの交流の集い(地域医療連携のつどい)も4年ぶりに開催することが出来ました。新型コロナで落ち込んだこの国の経済状況も多少上方へシフトしているのではないかと勝手に想像していましたが、暮れになってbad newsがまた出てきました。
この国はもうどうにもならない国になっているのかもしれない、ニュースを聞いてそう思いました。自民党安倍派のキックバック、裏金問題です。私たち勤務医の給料はすべて病院に管理されています。時に依頼されて他病院に手術の指導に行ったり、講演をしたりして頂くお金も全て申告し税を納めています。派閥のパーティで入ってくるお金は派閥に収めるお金も自分のところに返ってくるお金も報告をするのがまっとうだと思っています。でなければ所得税の脱税や政治資金規正法違反になるのではないでしょうか。このような手口で私(わたくし)のお金を手に入れた人は、間違ったことはやっていないと思っているのでしょうか。どこまで明らかになるのかわかりませんが、真相解明をしてほしいと思っています。このようなことが起きると必ず耳にするフレーズが「抜本的な改革」ですが、政治の世界のこの言葉、薄っぺらな軽い言葉にしか聞こえません。
そして、最後の最後にダイハツの不正です。なんと、1989年から行っていたと報道されています。30年超です。この国の「ものづくり」は太平洋戦争で国が壊滅的な状況になった廃墟の中から立ち上がりましたが、私が小学生の頃は「made in Japanは安いが質が悪い」などと言われていました。それでもこの国の人々は「明日への希望」を灯し続け、「いつの日か」を胸に、頑張ってきたと思います。そしてやがて、この国で作られるものは電化製品であれ車であれ、「世界トップの品質の高さ」を認められるようになりました。しかし、いつの頃からか「ものづくり日本」がおかしくなってきました。2016年からでも、日野自動車、三菱電機、日産自動車など、深刻な「品質不正問題」が40件超あったようです。私は外科医ですが、外科医として手抜きの手術をしたことはありません。常に最善を尽くしてきました。ものづくり企業の「品質不正」、不正が発覚すれば会社が潰れる、と思わないのでしょうか。何よりも社会に対する背信であり、人の命を命と思わない行為ではないかと感じています。
さて、2024年はどんな年になるのでしょうか。未来に希望を持つことができる、そんな年になってほしいと思っていますが、今のこの国を見ていると難しそうです。今年はパリオリンピックがありますし、大谷選手の大リーグホームラン記録への挑戦もあります。今年はスポーツが盛り上がりそうなので、私はそちらを楽しみたいと思っています。
福山市病院事業管理者 高倉範尚
No208 恩師への惜別
「腹部の緊急手術は患者さんが劇的によくなる、外科をやるなら腹部だ」と大学の病棟勤務の先生から声をかけられ入局し、50年を超えました。手術をやりたくて外科医になった多くの医師が、志半ばで手術を行う外科医から腰痛症なども診ざるを得ない外科医や、内科的疾患の診療も行わざるを得ない外科医となっていく現実があるなかで、私は勤務する病院以外の病院からも声をかけて頂く幸運にも恵まれ、2018年まで手術を行う外科医としての人生を歩むことが出来ました。外科医になって数年間は胃がんの手術が執刀できること、が目標でしたが、M先生と出会ったことで、当時はまだ黎明期であった肝胆膵外科と出会い、難度の高い肝胆膵外科手術を執刀できる人材がそれほど多くいなかったこともあり、私は手術とその術前・術後管理に没頭できる外科医で終われたと思っています。
そのM先生も実は肝胆膵外科の経験は豊富ではなく、国立がんセンターの手術見学に行かれたり、病理解剖の肝臓の鋳型標本(肝臓内で血管や胆管がどのように枝分かれし分布しているのか)を自作されたりしながら知識と技術を高められ、ついには世界最初の手術術式も開発され、米国の膵臓がん手術の権威が主催するシンポジウムにも招かれ講演もされました。「私は同じ手術はしない」、いつもそう言われていましたが、そんな姿勢が新しい手術の開発に繋がったのではないでしょうか。
当時、大学病院では若手の医師が執刀することは稀で、関連病院に赴任する前に1~2例執刀させてもらうのが常でした。私は同僚よりは少し多くの患者さんの手術を執刀しましたが、研究室時代から何度となくM先生の手術助手で他院での手術に同行していて、弟子の中ではM先生の手術を一番多く見たのではないかと思っています。まず「見る」、そして「覚える」、その繰り返しでうまく「真似る」ことが出来たのでしょう。私の外科医人生はM先生との出会いがあって全う出来た、と感謝しています。
そのM先生が10月末に亡くなられました。今年5月には弟子たちが集まり、M先生を囲み、2回目の生前葬を行いましたが、齢90歳を超えられ、さすがに足腰は弱っておられました。しかし、大きな病気は患ってはおられず、自宅まで送った弟子に、「また、やりたいな」と言われたようですが、叶わぬ夢となりました。
M先生は開講記念会誌によく寄稿されていました。1985年の記念会誌には以下のような文章を寄稿されています。
「医師は自分が患者を治していると言い過ぎる。特に外科医にその傾向が強い。自分が外科医になって30年、これまでに切り殺し、見殺した患者は神様の目からみれば、ゴマンといるのではないかと思う。外科医の大部分は死後地獄行きである。やがて何十年か経って自分が死んだとき、これらの患者があの世で自分を待っている。この人達に会うのを大変楽しみにし、また、なるべく先のほうがよいように思う。先になる程人数が増してにぎやかになる」、さて、先生は楽しく患者さんに会われただろうか、いつか会ったら尋ねてみたい。
福山市病院事業管理者 高倉範尚
No207 4年ぶりの帰省
9月中旬、4年ぶりに一泊二日で故郷に帰ってきました。両親が健在の頃は盆と正月、亡くなってからは正月の帰省は雪道になるかも、ということもあって盆だけの帰省にしていましたが、いつの時期の帰省にせよ、故郷の景色を目にすること、故郷へ帰る道筋の風景を見ることは、私にとっては自分の原点やこれまでの自身の歩みを思い起こす貴重な時間と思っています。
自宅から一般道を30分ほど走り自動車道にのりましたが、山陽道、播但道から見える風景はほとんど変わっておらず、播但道から時に見える下道沿いの景色も同じで、子どもたちが小さい頃によく立ち寄っていた屋根の形が特徴的な喫茶も見ることが出来ました。子どもたちそれぞれが仕事を持つようになってからは家族で帰省をすることはなくなりましたが、かつて目にした景色はいつぞやのにぎやかな車中の思い出をよみがえらせてくれます。
播但道を和田山で降りると後は下道ばかりを走ります。この道ももう何回走ったでしょうか、自宅の裏道くらいのつもりでいましたが、出石(いずし)の先の円山川の堤防道で一度道を間違えてしまいました。ここは間違えやすいポイントで、いつもは家内が「もうぼつぼつじゃない?」と声をかけてくれることが多いのですが、今回はその指摘もなく、彼女の機転も利かなくなってきている、と感じました。
帰省をしたその日の午後が両親の13回忌でした。岡山の自宅にも小さな仏壇を置き、何かの折にはお線香をあげていますが、父母の眠るお墓の前でちゃんと手を合わせ、家族の4年間の報告をし、供養が出来たのは大きな喜びで、弟に感謝しました。法事の後、身近な親戚で食事会がありました。私の家は親戚が少ない家で、弟と弟の息子の奥さん関係の人が3人、私の話し相手に実家近くに住む親戚のお酒好きが1人、お坊さん1人の計5人が私と弟の家族以外の参加者でした。子どもの頃の話から最近の故郷近辺の学校事情とか、それぞれの病気の話がきっかけで始まった京都府北部の医療状況までいろいろ話をしましたが、その一つにふるさと納税の話がありました。
ふるさと納税が始まってからずっと、私はふるさとに何もできていないので、ぜひ恩返しをしたい、と思っていました。ふるさと納税、ネットで調べてもどうしたらいいのかよく分からず、ずっとしないままにしていましたが、食事会の席で甥が役所の「ふるさと納税」を担当していると聞き、私ではなく家内がいろいろ聞いてくれ、故郷から自宅へ帰った後、ふるさと納税をめでたくすることが出来ました。返礼品は山陰の冬なら、の「あれ」にしました。その他、干物やフルーツのジャムなど、何回か届くようです。これで恩返しができた、とは思っていませんが、やっと少し役に立った、と安心しました。
故郷は私にとってすべての始まりの場所で何物にも代えられません。身体が動く限りはまたあの景色、あの空間を感じるために帰省を続けたいと思っています。
故郷に近い間人(たいざ)温泉の旅館「炭平」から見た日本海の夕焼けです。知人が今夏訪れた際に撮影した写真です。機会があれば訪れてみてください。
福山市病院事業管理者 高倉範尚
No206 北の大地-その記憶-
北海道には多くの人が何かしらの想いや思い出を持っているのではないだろうか。私の北海道に関わる最初の記憶は、小学生の時にアイヌの人を見たことだ。男性のアイヌもいたはずだが、覚えているのはアイヌの装束を身にまとった女性の口の周りが黒かったこととアイヌの踊り、そしてアイヌの言葉を教えてもらったことだ。同じ国に暮らす人々の協和や相互の理解を深めるための学校訪問だったのだろうか。クラーク博士の伝記を読みあの言葉を覚え、北海道でクラーク博士に会いたい、と思ったのも小学生の頃だった。
大学受験では北海道の大学への進学を考える人も相当数いるのではないかと思う。私も全く考えなかったわけではないが、現実的ではないと思いすぐに頭の中から消してしまった。その後、京都で浪人をしていた時に、北大に挑み続けている浪人生に出会った。彼がどうなったのかその結末を知らないが、初志が貫けていればいいが、と今も思う。
北海道に初めて行ったのは、医師になって3年目、当時勤務していた病院の院内旅行だった。どこから飛んだのか忘れたが、釧路空港に降り、阿寒湖、網走、摩周湖をまわり、最後は札幌市内の観光をして旅を終えた。たぶん2泊3日くらいだったと思う。羊ケ丘で念願のクラーク博士にも会えたし、北大のイチョウ並木や時計台も目に焼き付けた。この旅行では大きな木彫りのヒグマを買い、実家に宅配した。生まれて初めての宅配だった。このヒグマ、長く我が家の応接室に飾られていたが、その応接室も今はもうなくなった。ヒグマはどこに行ったのだろうか。
医師になって5年目、ある全国学会が札幌であり、上司と参加した。今ならあり得ないが上司とツイン仕様の部屋で同室だった。何時頃だったか、まだ薄暗い時間に浴室から水を使う音が聞こえ、目が覚めた。隣のベッドに上司がいない。やがて暗い中から下着ひとつの恰好でヌッと出てこられた。まさか私が起きているとは思っておられなかったようであった。「先生、何をされていたのですか?」と尋ねると、「水を浴びていた。いつも目が覚めたら水を浴びて、そのあと勉強することにしている」と答えられた。確かに上司はいつもそうだった。私などとても及ばない優秀な後輩が上司の背中を見てこの病院から何人も育っていった。
その後も北海道には何度か行った。食べるものも美味しいし、自然は豊か、気候も本州と違った季節を感じることができ、いつも心地よい時を過ごすことができる。この8月末、自治体病院の学会が北海道であり病院の仲間と共に参加した。6年ぶりの北海道である。この学会は医師以外の職種の人の発表がメインで、会場は熱気に包まれていた。その熱気のせいか、連日気温は30度越えの暑い日が続いたが、病院の仲間と楽しい時間を持つことができ、北の記憶をひとつ足すことができた。
福山市病院事業管理者 高倉範尚
No205 二つの報道に思う働き方改革
医師の働き方改革が来年春からスタートします。各病院はさまざまな取り組みを行っていると思いますが、連続勤務時間の制限や勤務の間にインターバルを設けなければいけないことなど、医師の労働に制限がかかることは事実であり、働き方改革の実施が地域の医療提供体制に負の影響を及ぼさないのか、私は懸念をしています。そんな中、最近二つのニュースを目にしました。
ひとつは、日本心血管インターベンション治療学会からの調査結果の報告で、「医師の働き方改革と循環器救急診療の両立は不可能」、「働き方改革が導入されるとスタッフが確保できず救急医療の縮小を迫られる施設が多く生じ、結果として循環器診療の崩壊が危惧される」というショッキングな内容でした。学会ではその要因を分析し、改善方策についても公表していますが、いちばんは医師不足、循環器内科に進む若手医師の減少があり、また診療科の偏在や心筋梗塞など急性期治療が不可能な地域の増加(要は過疎地域化)などもあり、そのような地域に住む持病のある人や心臓病で救急対応が懸念される人には移住を促し、施設を集約化していく必要があるだろう、と予測しています。この問題は循環器疾患に限らず、脳血管疾患や腹部救急疾患などにおいても同様で、医療が高度化、超専門化している現代では、「この国ではいつでもどこでも同じ医療が受けられる」は、もはや幻想かもしれません。寂しい話ですが、みんな分かっていても口に出していなかっただけ、だと思います。
そして、もうひとつは神戸市内の医療機関に勤務する消化器内科の専攻医が昨年5月に自殺をした、という悲しいニュースです。病院が設置した外部の弁護士や医師による第三者委員会の調査報告書では、この医師は長時間労働で精神障害を発症し、自殺した可能性がある、とされているようです。しかし、病院はこの報告書を遺族には開示しておらず、家族は「違法な残業があった」として労働基準監督署に告訴をしていますが、病院は「タイムカードで示された在院時間はすべてが労働時間ではなく、自己研鑽の時間も含まれたもので、過重な労働負荷があったとは認識していない」と説明しています。私は外部の人間なので多くは書けませんが、医師の自己研鑽については一般の人が聞けば「えっ」と思うこともあります。例えば、「明日、自分が執刀する手術のビデオを見て学習しておく」ことは労働なのか自己研鑽なのか。上司に勉強しておくように、と言われたので学習した場合は「労働」、上司には言われなかったが自分が予習をしておこうと思い学習した時間は「自己研鑽」となります。皆さん、どう思われますか。
二つのニュース、いずれも医師不足や地域偏在、診療科偏在が根底にあります。国は2036年にはこれらが解消されると説明していますが、果たしてその時、医師の働き方はどうなっているのでしょうか。
福山市病院事業管理者 高倉範尚
No204 早生まれは損?
最近、ある新聞に「早生まれは損?」という記事が日曜ごとに3週続けて掲載されていました。
1週目の紙面には「早生まれ」の子は平均して、同級生に比べて体が小さく、成長が遅いというハンディがある、と書かれていました。私は早生まれではないし、そんなことは思ったこともありませんでしたが、確かに4月2日生まれの子と翌年の4月1日生まれの子は、ほとんど1年誕生日が違いますが同級生になります。小さい頃は違いがあるのかも知れません。
埼玉県のある自治体の小~中学生のさまざまなデータを使った研究の中に、早生まれの生徒は早生まれではない生徒に比べ、中学3年生の時、学習や読書の時間が長く、通塾率が高い、という結果が出たそうですが、一方でスポーツや外遊び、美術や音楽に費やす時間は少なかったそうです。この結果について研究者は、保護者が自分の子どもに何らかの後れを感じて塾通いを優先し、そのために、非認知能力を伸ばすとされるスポーツや芸術系の習い事はしなくなるからではないか、と分析されていました。
2週目はスポーツについて書かれていました。紙面には過去30年間ほどのプロ野球選手、2238人の生まれ月を調べたデータが出ていて、やはり1月から3月生まれの人は全体の15.5%で、4~6月生まれの34.1%、7~9月の29.9%、10~12月の20.5%に比べて少ない結果でした。しかし、早生まれの中には偉大な選手がいます。ミスタ―プロ野球の長嶋茂雄さんは2月生まれです。ヤクルトの村上宗隆選手もそうです。早生まれだから同期に比べて力が落ちる、なんてことはない、ということです。
私の母の誕生日は3月31日と戸籍上はなっています。しかし、実際は違っていて、本当の誕生日は4月の中頃だったようです。母は多くの兄妹の末っ子で、親はとにかく早く大きくして(年を取らして)、家から出したい(嫁に出したい)と思ったようです(と、母から聞きました)。生活費を考えれば大正から昭和初期の農業を生業にする子だくさんの家では、こんなことは当たり前だったと思います。実際は「遅生まれ」なのに、わざわざ「早生まれ」にされてしまったわけです。「早生まれは損?」という視点からは、今ならあり得ないことだと思います。
ついでですが、私のごく近くに3月29日生まれのばりばりの「早生まれ」の人がいます。この人は未だに、スポーツにしても芸術系にしても、いろいろと「オクテ」なので、ひょっとしたら早生まれのせいかも、と記事を読んで一瞬思いましたが、「遅生まれ」の私自身も芸術は全くの「オクテ」ですので、やはり生まれ月は関係なく、要は才能のようです。
福山市病院事業管理者 高倉範尚
No203 ルーティン
ルーティンとは、決まった所作・動作を繰り返すこと、「日課」とも言い換えられる、と書かれています。朝起きて、雨が降っていなければ散歩をすることにしている、もルーティンでしょうし、朝は必ずご飯とみそ汁、そして漬物、あとは日によって焼き魚か卵焼きもルーティンと言えるでしょう。さて、皆さんのルーティンにはどのようなことがあるのでしょうか。
私は医師になるまではルーティンと言えるものはなかったように記憶していますが、あえて言えば、この「管理者室より」のNo17に書いたように、子どもの頃から「お願い事はトイレ」でしていました。なぜそうなのか、についてはNo17を読んでみてください。
医師になってからのルーティンは、当たり前のことですが、朝の始業、カンファレンス、抄読会の前には必ず受け持ち患者さんを診て回ること、でした。外来診療や手術は9時から始まることが多かったように覚えています。カンファレンスや抄読会はその1時間から1時間半前に始まるので、7時半か8時までには受け持ち患者さんを診て回り、管を抜いたり抜糸をしたり、異常があれば検査をオーダーしたり処方したりしていました。そのためには遅くとも6時半には病院に着いていることが必須で、着けば即仕事開始、これが一日の始まりでした。こんな生活を30年以上していたのですが、管理職になってくると患者さんを受け持たなくなり、それでも紹介患者さんがおられる間はその患者さんを必ず診に行っていたのですが、やがて患者さんを紹介されることもなくなり、朝、病棟に患者さんを診に行くことがなくなりました。
病棟に患者さんを診に行かなくなっても、外科で手術を行った患者さんの術後の状態はどうなのか、昨日の難しい手術は無事に終わったのか、朝までにどのような患者さんが救急搬送されたのか、など、外科医の性分上気にかかりますが、今では電子カルテを開いてみれば大方のことなら病棟へ行かずとも分かるようになっています。また、新型コロナウイルス感染症が2類の間はコロナ専用病棟や救命救急センターなどに新型コロナの患者さんがどれほど入院されているのかも、これは病院運営の上で大いに気にかかっていました。私の朝のルーティンは、病棟を回診することから電子カルテを見て救急患者さんやコロナの患者さんの情報を頭に入れることに変わりました。
そしてもう一つ、職員がヒヤっとしたことやハッとしたことがあると報告してくれている「ヒヤリハット報告」に目を通し、これは?!と思う報告にコメントを書くこともルーティンに加わりました。私のルーティンの始動は現在も6時半のままです。この病院で仕事をしている間、朝のルーティンはきっと変わることはないでしょう。仕事を辞めた後はどうなるのでしょうか?少し楽しみな気もしていますが、貴重な一日の始まりなので、「だらだら」が日課にならないように気をつけたいと思っています。
福山市病院事業管理者 高倉範尚
No202 5月8日その後―世の中と私の変容―
新型コロナが5類に移行した5月8日以降も、病院では職員や入院、外来の患者さんにはマスクの着用をお願いしています。患者さんとの面会は全面禁止ではなくなったものの、面会者の数や面会時間の制限は続けています。病院では5月8日以降も新型コロナの入院患者はゼロにはならず、人工呼吸器の装着が必要な重症患者の搬入もありますが、これからは少々新型コロナの患者数が増加しても、普通に生活していた元気な人がコロナに感染したことで亡くなったり、救急患者の受入れに大きな影響が出ない限りは、新型コロナの報道は次第に少なくなっていくのだろうと思っています。
世の中は5月8日より早くから、コロナ以前の日常に戻ってきています。連休の間、観光地の人の群れ、高速道路の渋滞のさまをテレビで見ましたが、3年以上我慢していた抑圧からの解放エネルギーの凄まじさを感じました。私は連休明けの週日に所用で新幹線に乗りましたが、外国人や旅行者とみられる熟年のカップル、若い女性たちのグループなどで予約席はほぼ満席状態でした。3年前には一つの車両に私一人ということもよくありましたが、本当に変わったものです。
5月8日以降は新型コロナの患者さんの全数報告がなくなり、地域ごとに医療機関を定め(定点)、その医療機関で何人の陽性者がいたのかを報告する制度(定点報告)に変わりました。福山市の定点は18医療機関であり、5月8日から14日までの1週間では、これらの定点から報告された陽性患者数は51人、1定点当たりの報告数は2.83人でした。連休の影響を反映すると思われるその後の1週間では、報告数は54人とわずかな増加で、連休の人の流れはそれほど影響がないかと思っていましたが、5月22日から28日の1週間では88人(1定点当たり4.88人)と不気味に増加しています。
このような状況の中で、果たしてタガを緩めていいのかどうか、多少疑問に思いつつも、私はすでに世の中の流れに乗ってタガを緩めてしまっています。実は、5月12日にはマスクなし、アクリル板なし、気持ちだけは十分ガードをして近隣医療機関の100周年祝賀会に出席しました。200人を超える人が集まっておられましたが、マスクをしていないこれほどの人を見るのは3年何か月か振りでした。皆さんいい顔をしておられました。この場にも解放エネルギーを感じました。5月21日には恩師を囲む30人少々の会に出席しました。2015年に研究室の仲間で一度「囲む会」を開いていましたが、恩師は今年92歳になられ、これから再々お会いすることも難しくなるだろうし、「さび」の効いた話も聞きたいと思い、二回目の会を企画しました。前回の「囲む会」に比べ、先生は足腰や視力の不調が進んでおられ、ご挨拶もいつもの激辛ではありませんでしたが、会が終わった後、先生を自宅までお送りした後輩から、「大変喜んでおられた。またみんなと会いたい」と言われていたと聞きました。嬉しいお言葉ですが、不肖の弟子たちも高齢化が進んでおり、次回の約束はしなかったようです。
福山市病院事業管理者 高倉範尚
No201 4年ぶりに桜を想う
国は、2020年4月7日に、新型コロナウイルス感染症の拡大は戦後最大の危機であるとして緊急事態宣言を発出しました。もう遠い昔になってしまい、その年の各地の桜の名所がどのような状況であったのか覚えていませんが、きっとどこも閑散としていたのではないでしょうか。
若い頃は勤務している病院の病棟スタッフや医局の仲間と花見に繰り出していましたが絶えて久しく、最後に大勢で花見をしたのは、庄原赤十字病院に勤務していた頃の上野池公園の夜桜でした。コロナ禍であっても桜は時期が来れば咲き、そして散っていきますが、特にこの3年、好きな花であるはずの桜にあまり思い出がありません。
私の週末のウォーキングコースの途中に池があります。この池の周囲に何本か桜があり、この桜はコロナ禍であっても毎年見ているはずで、咲くさまを見て「美しい」、散るさまを見て「潔い、切ない」、などときっと感じてきたと思っていますが、その記憶がとんでしまっています。認知のせいなのか、コロナのせいで桜に没入できなかったのか分かりません。確かにこの3年の間、当たり前にやっていたことが出来なくなり、人と交わることを制限され、外へ出ていくことが憚られるような状況もありました。無理に記憶しないようにしていたわけではありませんが、この3年は後年(があれば)振り返ってみても頭の中は白いままではないかと思います。実はこのようなことを私は一度経験しています。1969年の1月から9月まで続いた大学のストライキの時期で、この間ずっと授業はなく、しかし、ストが明ければ期末テストがあることは分かっていたので私は田舎に帰るでもなく岡山にいましたが、この9か月の間、何をしていたのか記憶がとんでいます。コロナの3年も「あの頃は大変だった」、で終わるのでしょうか。
さて、今年の桜、3月下旬の休日に友人とゴルフに出かけ、3分咲きの桜を見ることが出来ました。スコアはさておき、咲いた桜や蕾の桜が見られて気持ちよい1日でした。4月1日の土曜日にはウォーキングコースの池の周りに咲いているほぼ満開の桜を見ました。朝早い時間でしたが、風もなく静かな水面に映る桜や東屋、そして背景の山の稜線が実にきれいでした。それから1週後の昼はある会で福山城に行き、少し小雨が降る中でしたが、多くの花びらを落としているとはいえ、お城を背景に桜を見ることが出来ました。そして、4月中旬の週末、ウォーキングの最中には、風に散る桜花を見つけ、しばしの間身を置くことも出来ました。こんなにいろいろなことを想いながら桜を見たのは絶えて久しく、コロナの3年間を取り返したような気持になりました。
医療の世界は一足飛びに日常には戻れませんが、遠くない時期にすべての日常が戻ってくることを願っています。
福山市病院事業管理者 高倉範尚
No200 5類になる新型コロナ―世の中は落ち着くのか―
2019年12月と言われている中国四川省武漢での最初の新型コロナウイルス感染症患者の発生から4年目に入っています。当然、わが国の最初の患者発生報告やダイヤモンドプリンセス号の連日の衝撃的な報道からも3年が経過しました。私が勤務する福山市民病院に最初に新型コロナウイルス感染症の患者さんが入院されたのは2020年3月20日でしたので、この地域での患者発生からも3年が経過しました。当院では最初の入院から今年の3月19日までのまる3年の間に1,226人の患者さんが入院され、そのうち79人の方が救命救急センターに入院されました。2020年、21年頃は、救命救急センターに入院される患者さんは、新型コロナウイルス感染による肺炎、呼吸不全などの患者さんが多く、人工呼吸器管理もしばしば必要でしたが、特にオミクロン株が流行した2022年に入ると、救命救急センターへの入院が必要な重篤な疾患の患者さんがたまたま新型コロナウイルスに感染していた、というケースが増えてきました。また、病院職員の感染はコロナ禍初期にはほとんど見られず、濃厚接触者になり自宅待機が必要となった職員も少数でしたが、オミクロン株の流行に伴い、感染する職員や濃厚接触者となる職員が増加し、また院内ではクラスターも発生し、入院の制限、3次救急を除いた部分的な救急の受入れ制限も行わざるを得ない状況となりました。
その新型コロナウイルス感染症、5月8日を以て2類から5類感染症に移行することになりました。3年を超えて連日、感染症に関するニュースが流れたので、多くの人が「5類感染症とは?」と問われれば、「インフルエンザと同じ類の感染症。どこでも診てもらえるけど医療費は自己負担になる」と、スッと答えると思います。でも、「ちょっと熱があるし、喉も痛いから○○クリニックに行ってきます」と、家を出てクリニックに行かれたら、さてどうでしょうか、ひょっとしたら「うちでは診れません、他に行ってください」と言われるかもしれません。これまで、「インフルエンザかも?」と思い、医療機関を受診した際に診療を拒否されたケースは誰もが経験がないと思うのですが、新型コロナが5類に移行すると、どうなるでしょうか。厚労省は、5類になった新型コロナの診療を拒否した場合、「応召義務」に違反すると言っていますが、すでにネットではその反論が出回っています。外来診療にしてこの有様です。入院となるともっと大変です。行政の強制力がなくなり、コロナ支援金もなくなるとコロナに対応する病床は減るだろう、とも言われています。
たとえ症状は軽くても、感染力の強いコロナウイルスの変異株が出てくれば多くの人が感染し、結果として医療機関の人手が足りなくなり、医療提供体制に大きな穴が開く恐れがあります。5月8日以降、このようなことが起こらなければよいのですが。舵取りを間違えないように気をつけねば、と思っています。
福山市病院事業管理者 高倉範尚