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管理者室より 2015年度

記事ID:0000291 更新日:2021年1月4日更新 印刷ページ表示

No.112 忘れていた心地よさ

2016年03月15日

 2月のある休日にしまなみ海道を車で走ってみました。とは言っても、ドライブが主目的ではなく、霊験あらたかそうなパワースポット的なところに行ってみたいと思ったからです。たいてい休日であっても予定が入ることも多く、予定が入らない場合は自宅か自宅周辺の狭いエリアが活動範囲のことが多く、どこかに出かけるということなど1年に1度、あるかどうかというところです。今回は私自身の身体の問題もあって、静かなところで時間を使って心の中の自分と相対してみたいと思ったわけです。
 しまなみ海道は尾道から今治に至る自動車道で、以前は途中の島々の生活道路も走っていたようですが、現在は島の陸地部分も自動車道として完成して走りやすくなっています。また、しまなみ海道はサイクルロードとしても有名で、新尾道大橋以外の各橋には自転車や歩行者の専用道路が併設されていて人気が高く、その気になれば本州から四国まで歩くこともできます。私は岡山県、広島県が生活の拠点であったので、「しまなみ海道」は知っていましたが、四国に渡るにはしまなみ海道を通るよりは瀬戸大橋を通る方が便利なのでこれまでしまなみ海道を利用したことはありませんでした。
 さて、そのしまなみ海道です。まず生口(いくち)島まで行きました。以前、橋のないころ、「西日光」と言われている耕三寺に行ったことがあったので、まずここへ行こうと思いました。耕三寺は昭和の初めに実業家が建立した寺院ですが、西日光と言われるだけあって、どこもかしこも私には派手に見え、心を落ち着かせることができませんでした。そのあと、耕三寺に隣接した平山郁夫美術館に行ってみましたが、ここはほぼ静寂の中にあり、また展示されている絵画も静かで胸をうたれました。なんどか平山郁夫さんの絵は目にしたことはありましたが美術館で見たのは初めてで、悠久の時の流れ、崇高な宗教者の心、怯むことのない求道者の姿など、人は確かに小さく生命は一瞬とも言えるが、魂は残り、受け継いでいくことができる、と感じました。
 次に隣の島の大三島に行きました。大三島には大山祇(おおやまつみ)神社があります。大山祇神社は伊予国一宮で全国にある山祇神社の総本社です。創建は594年とされており、境内には樹齢3,000年、2,700年の楠がありました。ここは確かに境内全体がパワースポットのようです(勝手な解釈で、実際そうなのかについては不詳です)。この3,000年、2,700年の楠を目の当たりにすると、またまた自分がいかに小さい存在なのかということを認識させられ、虚勢などはるものではないし、はったとしても取るに足らないことを教えられます。誰であれ、人の命は有限で、最後は自然に還り、無となるということ、しかし精神は残し伝えていくことができるということ、まじめに生に取り組み、時間を無駄にしないということ、その他いろいろ感じ取ることができ、心が洗われたと思いました。何よりも日頃俗っぽいことしか考えず、世俗の中に埋没した生活をしている私が、少しの時間であっても俗と遊離して眼を閉じ考えることができたのは良かったと思っています。もう少し早くこんな時間が持てたらもっと良かったかもしれませんが、これからでも遅くない、これから時間があるときは静かなところをゆっくりと回ってみよう、という気持ちになっています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.111 びっくりぽん

2016年03月01日

 NHKの朝ドラの「あさがきた」で主人公のあささんがしばしば口にする言葉、「びっくりぽん」が流行っているようです。わたしも無意識のうちに口にしていますが、今年の流行語大賞を狙うにはブレークが少し早かったかなと思います。
 私の朝ドラのはしりは「おはなはん」です。樫山文枝さんが主人公を演じていましたが、この放送は1966年(昭和41年)だったようです。1966年といえば高校を卒業した年で、テレビなど見ていたはずはないのですが、妙に相手役の高橋幸治さんの鹿児島弁が耳に残こり、錦江湾に浮かぶ桜島の映像が眼に焼き付いています。
 このNHKの朝ドラ、歴代視聴率ランキングなるものがあって、1位は「おしん」で52.6%、以下、2位は「繭子ひとり」、47.2%、3位「藍より青く」、47.3%だということです。若いころは連続ドラマなど見る時間は全くなかったのですが、病院からの呼び出しが気にならなくなったころから朝ドラを見るようになりました。と言っても毎日見るのではなく、土曜日の朝、1週間分をまとめて放送するのでその際リアルタイムで見るか、用事があって見られないときは録画をしておいて後で見るようにしています。で、いつの頃から朝ドラを決まって見るようになったのかバックナンバーを調べてみると、2011年頃から見ているようで、それなりに楽しんでいますが、ずいぶん楽しませてもらった「あまちゃん」の視聴率は20.6%にすぎず、歴代のなかでは下位の方です。昔の朝ドラの視聴率に比べるとずいぶん低いです。ちなみに「あさがきた」は1月12日現在の平均視聴率は23.1%で最近10年のなかでは最高です。しかし、23.1%が近年の最高だなんて「びっくりぽん」です。
 なぜ、昔は視聴率が高かったのに、近年は低いのでしょうか?(1)他の娯楽も多い、あるいは時間を過ごす選択肢が増えた。確かにスマホいじりで忙しいのかも?(2)働く女性が増えて放送される頃には家にいない。夜もやっているようだが夜は夜で忙しいのかも?(3)テレビ、あるいは放映されるドラマ自体に興味がない。でも子供は今でもテレビは好きなようですが、大きくなると変わるのでしょうか?などなど、こんなところが思い浮かびますが、やはりテレビを見ること以外にやることが増えたのが原因なのでしょうか。
 私たち団塊の世代はおそらくテレビっ子だと思います。物心のつくころにテレビがあった家などほとんどなく、多くの人が「我が家にテレビが来た日」のことはよく覚えていると思います。もちろん私もよく覚えています。中学生の頃です、部活はサボるわけにはいきませんでしたが、それが終わるや否や、走って家まで帰りました。家に入ると居間の神棚の下の一番いい場所に、何インチかは忘れましたが、四角いどっしりとしたテレビが鎮座していました。オヤジより上座です。そのテレビを囲んだ我が家の家族ももう私と弟の二人になってしまいましたが、本当に温もりのある良い時代でした。
 今は一軒の家でもあちこちの部屋にテレビがあり、めいめいが勝手に見たい番組を見ている、こんな感じだと思います。テレビのチャンネルの奪い合いで涙を流すなどということもないでしょう。テレビを囲んで一家で団欒するさまもきっとないでしょう。家族同士のふれあいさえ希薄になっていっているのに、他人にかまえるか、となるのも無理からぬところかも知れません。まさに「びっくりぽん」な世の中になってきている感じがしています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.110 価値を高める

2016年02月15日

 私は「人は必ず何かいいものを持っている」と思っています。そんな思いで研修医を育ててきました。世の中に天才などごくわずかしかいなくて、多くは普通の人たちです。多少、努力をしたかどうかで学歴は異なることはあっても、人の値打ちにそれほどの違いがあるとは思っていません。
 指導医から快く思われていない研修医は確かにいると思います。そんな研修医はたいてい素直でない、あるいは言われたことができていない、そんな人が多いように思います。しかし、たとえそうであっても辛抱強く接していけば彼らは変わっていきます。言われたことができていないときも、何かできない理由があるはずです。やり方が分からないとか、やることが多すぎてできないとか、です。それが能力だと言われればそうかも知れませんが、仕事は要領を覚えれば必ずできるようになります。
 ヤクルトや楽天の監督をされた野村克也さんは、他球団であまり使われなかった選手、成績が落ちてきた選手を再生させることで知られていました。詳しくは知らないのですが、野村さんの話を聞いた選手たちは「目からウロコ」の状態だったのだろうと思います。それまでの「当り前理論」ではなく、試合での一つ一つの動きに「理屈」があり、それを理解した選手が大化けをしたのではないかと想像しています。野村さんは彼一流のやり方で選手の価値を高めたのです。
 病院では様々な職種の人が働いています。それぞれの人が基本的にプロフェッショナルです。毎朝、院内の清掃をしている委託業者の人も掃除の資格試験はありませんがプロフェッショナルで、床をクリーンにすることに懸命です。私も練習をすればうまく掃除ができるようになるかもしれませんが、彼らと掃除の勝負をして勝てるとは思っていません。つまり、私も含めて、院長や副院長、あるいは医師、看護師、医療技術部のスタッフ、これらはすべて病院という組織が有機的、効果的に動いていくためのひとつのピースに過ぎません。医師であるならば「しっかりと診療をすること」が使命であり、放射線科の技師であれば「レントゲン撮影をすること」が最も大切なことです。ただ、プロであればそれは最低限、当たり前のことで、これまで以上に診療の精度をあげたり、高難度の手術ができるようになったり、学術活動に頑張ったり、患者さんに優しく接することができるようになったりすることが、自分の価値を高めることになるのだろうと思います。
 私は今年の仕事始めで、「自分の価値を高める努力」をしてほしいと職員に向かって言いました。一人ひとりの価値が少しでも高まれば、その総和として間違いなく病院の価値もあがります。一人でできることはしれています。どんなに優秀な外科医であっても、一人で手術をすることは極めて困難で、周りからサポートされて初めて彼は一流の腕をふるうことができるのです。私は野村さんのように、人を動かす才能はありませんが、病院スタッフのごくわずかな一歩の前進に今年は期待をしています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.109 病院機能評価

2016年02月01日

 2016年1月20日、21日の2日間に亘って日本医療機能評価機構の病院機能評価の訪問審査を受けました。医療の世界では「機能評価」と呼んでいます。福山市民病院は2006年、2011年と2回、機能評価を受審して「合格」の認定証をもらっていますが、今回が3回目の受審でした。一般の人にはなじみの薄いこの「機能評価」、何だと思われますか?
 この日本医療機能評価機構というのは1995年(平成7年)に、国民が質の高い適切な医療を安心して受けられること、国民の健康と福祉の向上に寄与することを目的に設立された機関で、様々な事業を行っていますが、そのうちの一つに「病院機能評価」があります。これは機構が第三者の立場で、病院組織全体の運営管理が適切に行われているかどうか、提供されている医療は適切か、具体的にはガイドラインに準拠した医療が行われているかどうか、安全な医療が行われているかどうか、患者さんを治療していく上で、多くの職種が関わり適切な治療計画が立てられているのか、などを書類や、各部署を実際に訪問して確認します。この機構から病院に来られる検査官のことを「サーベイヤー」と言いますが、「サーベイヤー」は医師や看護師、診療情報管理士、病院事務に精通された方などで、このたびの審査では7人の「サーベイヤー」が当院に来られました。
 私が最初に「病院機能評価」に関わったのはたぶん2005年で、広島市民病院に在職中の時でしたが、「医療の質」が問われる「第4領域」の責任者を仰せつかりました。この時はほぼゼロからのスタートであったので、まずは書類の整備が大変で、「○○基準」、「○○要綱」、「○○規定」などを担当診療科、担当部署を叱咤しつつ作りあげ、全科・全部署共通の書類は何度も徹夜をして自分で作ったりもしました。いよいよ明日が訪問審査だという日の夜、やっと書類が完成し、何冊もの分厚いファイルを前に、他の領域を担当された同僚の副院長たちと並んで写真を撮ったことを思い出します。2回目は福山に転勤してきてからでしたが、1回目に比べればスムースに準備もできて、それほど大変ではありませんでした。そしてこのたびの3回目は事業管理者という立場だったので、受審準備の会などには出席をしていましたが、あまり勉強をすることもなく、2回目よりさらに楽をさせてもらいました。とはいえ、訪問審査自体はこれまでの「書類の整備」や「物品の管理」、「安全管理」などを見るのではなく、「患者さんのケアプロセスの実際」を見ることに主眼が置かれていて、かなり様変わりをしていると感じました。
 このたびの機能評価の受審に際しては、院内の多くの職種の多くの人たちが関わってくれました。もちろんこの病院を受診していただく患者さんのためにわれわれの病院の「病院力」を第三者機関に評価してもらったわけですが、病院職員の間にも、半年以上に及ぶ準備の間に、この作業に関わる者同士の連帯感が生まれ、絆が深まったのではないかと思っています。
 今回の合否の判定は3ヵ月ほど先に分かるようですが、もちろん受審した以上は合格したいと思っています。「認定証」が郵送されてくれば院内のどこかに掲示をしますので、どうかご覧になってください。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.108 医療の質

2016年01月15日

 「医療の質」という言葉をよく耳にしたり口にしたり、また書いたりします。
 さて、その「医療の質」ですが、私はこれまで「合併症などを起こさず安全に医療を行うこと」、「先進的な医療(高度な医療とも言えます)を行うこと」、「患者さんの満足度が高い医療」などを漠然と「質の高い医療」と考えていました。たぶん、こんなふうに考えている医師が多いのではないかと思いますが、一般の人たちはどう考えているのでしょうか?「がん手術の生存率」なども「質」の評価になるとされていますが、私はがんには様々な進行度があったり、その患者さんが他に持っている病気(併存疾患と言います)もあって、生存率だけでは評価できないと思っています。そもそも手術で治るがんは「取りきれる範囲にがんが存在している」時だけで、それを超えて進行している場合は権威と言われている人が手術をしても治ることはありません。研修医が執刀したら治らず、権威が執刀すれば治るがんが果たしてどれほどあるでしょうか?私はほとんど無いと思っています。
 先ごろ、ある人の書いた文章を読みましたが、その中に「医療の質」について書かれた箇所があり、なるほどと思いました。その人が言われるには、「医療の質」には三つの視点があると。一つは「親切な医療」、「丁寧な接遇」、「安心・安全な医療」という「医療を受ける側からみた視点」、二つ目は「がんの5年生存率」、「院内感染発生率」、「褥瘡(とこずれ)発生率」などの「医療を提供する側からみた視点」、そして三つ目は「24時間救急を受け入れているか」、「病院が雇用を生んでいるか」などの「地域社会からみた視点」だということです。一つ目、二つ目は分かりますが、三つ目の特に、「雇用を生んでいるか」などは医療の質として考えたことはなく、なるほどと思い、この年にしてまた勉強することができました。
 確かに医療や介護事業は成長戦略の大きな目玉で、これからさらに進む高齢社会に向けてそのニーズ、事業規模は大きくなると言われています。平成23年度(2011年)のデータですが、現在、医師や看護師、コメディカル、医療ソーシャルワーカー、看護補助者、病院事務職員など医療に従事している人は255万人くらいと言われています。たしかに医療・福祉業の従事者は国の統計でも卸売・小売業、製造業に次いでなんと三番目の多さです。そして、これから10年先の団塊の世代が後期高齢者となる平成37年(2025年)には医療従事者が現在より100万人増えると言われています。医療がポシャれば国がポシャるような時代になるのでしょうか。
 あまり考えたことはなかったのですが、福山市民病院は委託業者の人たちを含めると1,000人以上の人たちが働いています。資本金なども考えると中小企業と定義される企業には当てはまらないので、大企業といえる事業所のようです。正月早々、えらい責任を負っていることを知りました。
 「医療の質」から話が少し脱線してしまいましたが、要は、「安心・安全な医療」と「健全な経営」に努めて、地域に暮らす人たちや地域社会に貢献をしなければならないということのようです。こんな想いでスタートする2016年ですが、皆様方にとって、また病院にとって良い年であることを願っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.107 国の行方

2016年01月01日

 明けましておめでとうございます。
 このコーナーは2011年11月から始まりましたが、早いもので5年目に入っています。これまで月に2回をきっちりと守ってきましたが、今年は不定期になるかもしれません。どうかご容赦をお願いいたします。

 昨年の国会で、安保関連法案が大変な混乱の中、成立しました。当時は連日、国会の様子や各地の反対デモの様子がテレビや新聞で報道され、否が応でも「国のこと」を考えさせられた方々が多かったのではないかと思います。
 この法案に反対の立場の人にはもともと右寄りだと思われていた人たちも含まれていました。この人たちは集団的自衛権は否定していないのですが、現行の憲法のもとでは違憲であるので、正々堂々と憲法改正をまず行ってから臨むべきだと訴えています。また、この国の安全保障は現在の個別的自衛権の範囲内での対応で十分であり、限定的とはいえ集団的自衛権には反対だという考えの人もいます。もちろん、どこから見ても軍隊である自衛隊そのものに反対の立場の人がいたり、現行の憲法のもとでは戦争はできない(侵略されても)と考える人もいたりで、多くの人たちが今回の安保関連法案に反対をされたのだと考えています。
 私は、解釈次第でどうにでもなる分かりにくい憲法では良くないと思いますし、何よりも日本人の手による憲法を作るべきだと思っています。憲法は9条だけが憲法ではありませんが、今、憲法改正と言えばその部分だけが取り上げられるのは残念です。今の憲法でも残すべきところは残し、誰が読んでも解釈に差異のない、国の目指す方向をはっきりと示す憲法であるべきだと考えています。
 多様な考え、価値観は成熟した国ほど豊かだと思います。中国のように未だに言論統制され、人権を訴える弁護士たちまで当局に拘束される国もあります。われわれの国はなんでも自由に言うことのできる素晴らしい国だと思いますが、国の安全やあり方については、国論が分かれるべきではないと思います。そういう意味ではこの安保関連法案は本来、一から論議をやり直す必要があると考えています。決まるまでは200時間程度ではなくさらに多くの議論を重ね、決まるときには多くの国民が納得するものでなければならないと思います。
 司馬遼太郎さんが、明治国家について書いた書物があります。彼は明治国家は清廉で透きとおったリアリズムを持っていたと述べています。また、その時代の指導者たちは無私の心のみで私欲はなく、国家を設計し建設したと言っています。当時の指導者はこの国の在り方を考えることだけが全てであったのでしょう。今の指導者たちはどうでしょうか?清廉でしょうか?果たして無私でしょうか?50年、100年先のこの国を考えているのでしょうか?もちろん、立派な人もおられるでしょうが、医療風に言えば、「説明と同意に基づく国民のための政治」をお願いしたいと思っています。
 もちろん、国民も変わらなければいけないと思います。今、この国は劣化の一途をたどっているように私には思えます。その原因は一つや二つではもちろんないと思いますが、大きくは教育とモノがあふれた現代社会と家庭にあるのではないかと考えています。街を歩いているとスマホから目を離さない若者をよく目にしますが、「何か違う」といつも思います。言語が貧弱になり、他者との関わりも薄れ、共同体が崩壊し、人が倒れていても声をかける人がいなくなる、そんな時代が遠くない将来やってきそうな予感もしています。貧しくはあっても心は豊かであった私の子ども時代のほうがこの国ははるかにいい国でした。国が考えるべきは安全だけではなく教育もそうで、今取り組まなければこの国に将来はないのではないかと感じています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.106 「2015」を送る

2015年12月15日

 2015年もあと2週間ほどになりました。時の刻みは一定のはずですが、年齢を重ねるにつれ駆け足のように速く過ぎ去っているように思えます。この2015年という年は誰も2度と経験しないわけで、であるなら、この年をよくよく胸に刻んで送らなければという気持ちになります。実はこんな気持ちになったのは初めてで、人生も黄昏にさしかかると誰もがこんな思いになるものなのでしょうか?
 2015年は病院の方は公立病院改革ガイドライン、地域医療構想などの課題がありましたが、福山・府中圏域の構想はほぼまとまりました。病院の改革プランは地域医療構想の策定を待ち考えることにしたので、来年に持ち越しになりました。医療機器ではダヴィンチや高精度放射線照射装置も稼働し、救急診療、がん診療などの診療実績も上がっており、地域で求められている役割もほぼ果たせていると思っています。これもすべて、この病院で働いている職員や、地域の医療機関の皆様方のおかげであり心から感謝しています。
 この国の2015年は、ノーベル賞の受賞者が昨年に引き続いて出たり、長崎の軍艦島や韮山の反射炉が世界遺産に登録されたり、ラグビーが男女ともに頑張ったりと、いいこともあったように思いますが、鬼怒川の豪雨災害や旭化成建材などの手抜き工事・データ捏造など暗いニュースもありました。この建設業界の事件など考えられないことで、おそらく杭の何本かが固い地盤に届いていなくても建物が傾くはずなどないと思っていたのでしょうか。私の専攻する外科なら「手抜き手術」ということになりますが、さすがにそんな事をする外科医などこの国には誰ひとりいないと思います。データの捏造も絶対にやってはいけません。カルテを改ざんすると罰せられますが、この種のデータ捏造は罪に問われないのでしょうか?不思議です。そして、つい先日、化血研の血液製剤の不正製造が報道されました。狂っているとしか言いようがありません。日本人としての矜持、誇りはどこに行ったのでしょうか?
 中国から提出された「南京事件に関する資料」が世界記憶遺産に登録されました。やった、やらない、それほど多くはない(亡くなった人たちが)などの論争が以前からあるのは知っていますが、いい加減にしてほしいという気持ちです。慰安婦の問題もしかりです。関係する国々が建前ではなく本音で話をして解決してほしいと思います。戦争が終わってもう70年もたったのです。このまま何百年、何千年と中国や韓国からの非難は続くのでしょうか?何か知恵があるのではないかと思います。
 長く議論されてきたTPPもやっと大筋合意されました。後は個々の国での議論ということのようです。たぶん良いところも悪いところもあると思っています。総論賛成、各論反対はいつの時代でもあるようですが、医療に関わる領域では「格差」が出ないように見張らなければならないと思っています。
 さて、「2016」はどんな年になるのでしょうか?もうそこまで来てこちらをうかがっているでしょう。個々の力や想いだけではどうにもならないことのほうが多いのは間違いないと思っていますが、すべての人が納得のいく年になればきっと「いい年だった」と振り返ることができるのではないかと思います。医療の世界では2016年は診療報酬の改定があります。報道では厳しい改定になると言われています。たとえそうであってもこの病院は、ぶれることなく果たさなければならない役割をしっかり果たしていきたいと考えています。
 12月31日、大みそかの夜は自宅近くの寺の鐘の音を聞きながら、感謝の気持ちで「2015」を送り、新しい年を迎えたいと思っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.105 ロータリーの話

2015年12月01日

 ロータリーという組織があります。ロータリークラブはもともと米国シカゴの弁護士ポール・ハリスらによって始められた「公正な取引を行う仲間の集まり」であったようです。私は「ロータリー」については全く無知で、今でも「ロータリー」と「ライオンズ」の区別をおそらく上手く説明できないと思っていますが、先輩からは「ロータリー」とは要は職業を通じて奉仕する団体であると教わっています。こんな「ロータリー」に何故、私が入会したのか?一言で言えばだまされて入ってしまったように思っています。
 副院長当時、院長に呼ばれ院長室に行くと、落ち着いた感じの2人の紳士が座っておられました。2人は「ロータリー」の話をしばらくされ、私に入会を勧められましたが、私には外来もあるし、手術もあるし、真っ昼間に「例会」など行けるはずもないと考え、固辞しようと思っていたその瞬間、院長が一言、「市民病院の院長は代々入るんです」と。そう言われると断ることも出来ず、結局入会することとなりました。後日、先々代の院長に会う機会があり、「先生もロータリーに入っておられたのですか?」と尋ねると、先生の答えは「いいや」でした。どうも前院長の言われた「代々」とは、前院長で「代」、私でやっと「代々」になったというのが正しいようです。
 「ロータリー」に入会した経緯がどうであれ、現在は入会して良かったと思っています。何よりも職種を超えた人とのつながりが出来たことで私自身の視野も広がった気がしています。「ロータリー」の例会行事に「卓話」というものがあります。会員やゲストが30分ほどみんなの前で話をするわけですが、本当に心に響く話をされます。同業である医師からはあまり感じられないような人生観や仕事へのエネルギーを感じることがあります。私などは医療の話をするのが精一杯ですが、自分の職業とは関わりのない話を澱むことなく聴かせてくれる会員もいます。そして多くの会員は驚くほど献身的です。私のクラブではこの2,3年、「認知症」をテーマにしてそのサポートを如何に行うべきかなど市民を対象に講座を開いていますが、会場整理、駐車場整理、ビラ配り、関係各所への挨拶などみんな忙しいはずなのに、よく動かれて頭が下がる思いがします。
 その他にもロータリーには気持ちをリセットできる習慣があります。毎月最初の例会では「国歌」を斉唱します。入会以前は国歌を歌う機会は看護学校の入学式と卒業式くらいでした。「君が代」が国歌として相応しいかどうかは別にして、私は「国歌」を歌うことで父や母や家族を想い、「家」を意識することが出来ます。今ここに自分がいるのは少し大袈裟だとは思いますが、人類の誕生から今までの無数の偶然によるもので感謝するしかないと思っています。そうであるならば、何かをしなければいけないのではないかという気持ちにさせてくれるのが月1回の「国歌」斉唱です。「四つのテスト」の斉唱というものもあります。「四つのテスト」とは実に当たり前のことですが、それでも毎回「かくあらねば」と思わせてくれます。「真実かどうか」、「みんなに公平か」、「好意と友情を深めるか」、「みんなのためになるかどうか」、これが「4つのテスト」で、言行はこれに照らして行うべしというものです。腹の底を割って話すこと、隠し立てなく付き合えること、こんなことは子供時代ならたやすいことですが、年をとるにつれ言行不一致や言考不一致になることもあり、「四つのテスト」を歌うたびに反省させられたり、子供時代に帰りたい想いにも駆られています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.104 「紡ぐ話」と「cureとheal」

2015年11月15日

 今年も10月の第一日曜日に私の出身教室の開講記念会(同門会)が開かれました。このシリーズのNo54に「同門会」という題で書いていますので、同門会って何だと思われる方はそちらを読んで頂きたいと思います。
 今年の同門会は現在のF教授が就任されて5周年ということで、いつもと違った形で開かれ、皆さんよくご存知の堀江貴文氏の講演もありました。堀江さんの講演も彼が人並みではないということを思わせる興味深い講演でしたが、私が印象深かったのはF教授の「紡ぐ話」と緩和支持科のM教授のスライドに出てきた「cureとheal」という単語でした。
 F教授の話は「紡ぐ」をKey wordにして、「人、技、夢、心のそれぞれが、過去から現在へと紡がれてきた。自分はこれらを未来へと紡いでいく」という話でした。医師に限らずどのような職種であれ、人を育てなければいけません。これまで継承されてきた技術も今の時代に対応した形にしていかなければいけません。開腹手術で行っていた技を内視鏡手術にも応用し、成果を出し、若い世代に伝えていかなければなりません。研究の夢も世代を超えて追い求め、人類への貢献というGoalを目指さなければいけません。細い数本の糸から紡がれた技や夢が次第に大きな綱となり、われわれが目指す「病の克服」にいつかは辿り着くのではないかと想像しています。この度の同門会の運営や教授の話を聴いて、間違いなくこの外科は、さらに素晴らしい外科になると思いました。また、このような考えの教授のもとで仕事が出来る今の若い人を羨ましく思ったりもしました。
 M教授の「cureとheal」は日頃から思ってはいたのですが、「私はこれまで望めないcureを目指して患者さんに接してきたかも知れない。healをもっと考えて診療をしてきたらよかった」と少し反省をしながら、そのスライドを見ていました。「heal」には「直す」という意味もありますが、「癒す」という意味の方により馴染みがあります。おそらく皆さんもそうだと思います。「cure」と言ってみると、どことなく「冷たく、そしてするどく、あるいは突き放す」ような響きがあるように聞こえます。それに対して「heal」は「優しく、包み込まれる」ような感じがします。これまでこの二つの言葉を並べて考えたこともなかったので気がつきませんでしたが、どうでしょうか。
 国立F病院に在籍していた若い頃、60歳代の患者さんの肝臓の入り口近くの胆管に出来た悪性腫瘍の手術をしたことがあります。ある程度進行はしていましたが、腫瘍が肝臓に転移したり、おなかのなかに散っていたりはしていなく、肝臓を60%程度と胆管、リンパ節を切除し、見た目では「取りきれた手術」が出来ました。7~8時間はかかったと記憶していますが、「cure」を目指して手術をし、満足のいく手術が出来ました。ちょうど同じ頃に80歳前後の、レントゲン画像からは同じような進行度合いにみえる患者さんがおられ、この患者さんは私の先輩が主治医になられました。私は当然この患者さんも手術になる、と思いましたが、先輩は手術をすることなく、胆管の中にチューブを入れ、腫瘍部分には放射線を照射する治療法を選択されました。せっかくの「cure」のチャンスを見逃されるのか、と思っていましたが、私の患者さんは半年ほどで再発し1年のうちに亡くなられ、一方、先輩が診ておられた患者さんは2年以上元気で生活されていました。私は「cure」を目指しましたが失敗し、先輩は最初から「heal」を選択したのかもしれません。
 病気には治る病気と治らない病気があります。また、同じ病気で同じ進行度合いであっても治る人と治らない人がいます。医療のゴールとして「cure」と「heal」を使い分けることは難しいかも知れませんが、日頃から意識はしておかなければいけないと今は思っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.103 スーパームーン

2015年11月01日

 少し前になりましたが、今年の9月28日、スーパームーンが見られました。ちょうど仲秋の名月の翌日ということで話題性もあったのかもしれませんが、テレビでも取り上げられて海外の画像まで流れていましたし、私の数少ないface bookの友達も何人か画像を発信していました。
 スーパームーンというのは月が地球に最接近した状態の満月あるいは新月をそう呼ぶのだそうです。簡単に言えば地球と月と太陽が直線状に並び、月が最も接近した状態の時に起こるらしく、月の大きさは平面上で1.14倍になるそうで、この大きさがスーパーの所以なのでしょう。
 実は私は、この歳になるまでスーパームーンという言葉は知りませんでした。若い人はどうだろうかと思って、病院の事務の女性に聞いてみましたが、彼女も「今回初めて知りました」と言っていました。皆さんは以前からご存知だったのでしょうか?
 9月28日は福山地域は雲が多い日でしたが切れ目はあったので、そのスーパームーンなるものを見てやろうと思い、20時頃に外へ出てみました。福山のスーパームーンは大きさはそれほど大きいと感じませんでしたが、やたら明るく光り、眩しさを感じるほどでした。あんなに明るい月をこれまで見た憶えはなく、いつもは見える「うさぎ」は見えませんでした。夜中にもう一度外へ出て、多少は様相が変わっているのだろうかと見てみましたが、相変わらず眩しいままのスーパームーンでした。子供のころに竹取物語でかぐや姫に出会い、月の海をうさぎが餅をついているとロマンを教えられ、月の砂漠のメロディに澄んだ寂寞感を感じていたことなど、月にはそれなりの思い入れもあるのですが、このスーパームーンは私のそんな想いを全く意に介することもなく、ただ煌々と光っていました。
 皆さんはどう思われるのか分かりませんが、私は月は控えめであるべきだと思っています。月が太陽と同じでは「趣き」が無くなります。太陽が先でも月が先でもどちらでもいいのですが、やはり月と太陽は対であるべきで、山と海、晴れと雨、冬と夏、秋と春、陰と陽など、それで調和がとれ、その場その場で折に触れて見るものや聴く音、触れる風に「さま」を感じ、そして心が磨かれていくのだと思っています。
 もちろん、スーパームーンを悪く言うつもりはありません。テレビで流れていたヨーロッパの赤い色をした神秘的なスーパームーンは素晴らしいと思いましたし、砂漠のスーパームーンも見てみたいなと思いました。この次のスーパームーンは来年の11月14日だそうですが、果たしてどんな月が見られるのでしょうか。
 今年の福山のスーパームーンがあまりに明るく眩しかったので、若干むきになってスーパームーンを苛めた感がありますが反省しています。そう言えば、明るく、眩しい月明かりも必要なことがあります。この後何年か先、視力がどんと低下した時や、誰かに夜道で狙われるようなことがある時は、明るいスーパームーンを待ち望む私がいるかもしれません。もちろん、そのようなことがないことを祈ってはいますが。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.102 秋と言えば

2015年10月15日

 秋と言えば、食欲とか読書とかスポーツとか、いろいろ言われています。先日、フジテレビの加藤綾子アナは「秋と言えば」の問いに、「断然、食欲!」と答えていましたが、皆さんはいかがですか?食に関してはやはり、稲穂が実ったり、海や山の食材が豊富ということがあるのでしょうか?冬は寒くて食べ物も保存食のイメージがありますし、夏は食欲は出ないし、となると春か秋ということになるのですが、秋に軍配が上がったのでしょう。スポーツについては確かに前の東京オリンピックは10月に開催されましたし、子供のころを思い起こしてみると当時の運動会は秋に行われていました。
 以前にも書いた記憶がありますが、私は1年のうちでは秋が最も好きな季節で、特に晩秋の夕暮れがたまりません。秋、夕暮れ、山の端、家々の灯り、漏れ聞こえる家族の会話など、厳しい冬を迎える前の人の温もりを最も感じる季節だと思っています。昔、西行法師は「願わくは花の下にて春死なむ」と詠みましたが、私は是非晩秋で、と神様にお願いしています。
 それはさておき、私は中学生の頃、バスケットボール部に所属していました。隣の家に5歳ほど年上の人がいて、彼が中学・高校とバスケをやっていたので中学生になったらバスケットボール部に入ると決めていました。部員の数は多くなかったものの、私たちの学年はチームワークが抜群で、練習試合の後は相手チームの分析と、自分たちのチームのその試合での問題点や改善点を議論していましたが、チームの監督は体操競技が専門の体育の先生で、バスケは全く経験のない先生でしたので、実戦的なアドバイスは頂けなかったように覚えています。私の同期に一人二人上手いやつはいましたが、あとはそれほどではなく、丹後地方(熊野郡、竹野郡、中郡の三つの郡)の六つの中学校が参加して行われる三郡球技大会では優勝候補の「ゆ」の字にも挙げられていませんでした。ところが、ところが、なんと優勝してしまったのです。やっている私たちもびっくりしました。多分、みんなのシュートもそこそこ決まり、リバウンドもラッキーがあったのかも知れません。決勝で戦った中学は毎年毎年決勝まで進んでくる強豪チームでしたが、試合が終わった後の彼らのあっけにとられた表情は今でもよく覚えています。ただ、私たちは365日、毎日練習をしていました。毎日4~5Kmほど練習前に走っていました。今から思えば、きっと走り勝ったことが、最大の勝因だったのだと思います。
 また、中学生の時には、バスケと同じように三郡陸上競技大会という大会も秋に行われていました。各中学校からの代表が走ったり、跳んだり投げたりするわけですが、私たちの学校には陸上部というのはなく、校内陸上大会の上位の人たちが学校の代表として、その三郡大会に臨むわけです。私は1年生から3年生まで800mリレーのメンバーでその大会に出場しましたが、われわれのチームには京都府の短距離No1選手がいたので、毎年優勝していました。個人競技では2年生の時に100m、3年生の時に400mに出て、5位と2位でした。この三郡の大会と宮津市あたりの大会の成績上位者の2人が京都府下大会に出場できます。これもなんと、私の400mのタイムがこれに該当したので、府下大会に出ることになりました。バスケが本職の生徒が、です。ただ、府下大会ではとても京都市内の選手に太刀打ちできず予選で落ちてしまいましたが、西京極競技場で走ったことは「プチ」自慢です。
 ちなみに、バスケのほうは宮津地域の優勝校と府下大会の出場権をかけて対戦しましたが、この試合の前にはあまり練習もせず、相手の分析もせず、出たとこ勝負で臨んだこともあって負けてしまいました。やはり、相手を知り、己を知らないと勝負にならないということです。
 医療も、これと全く同じで、病気のこと、患者さんのいろいろな身体の機能、そして自分の実力を知ることが、安全な医療の提供につながるのだと思います。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.101 議会

2015年10月01日

 今年の4月から院長職を離れ事業管理者に専任となったので市議会に出ることになりました。これまで予算委員会や決算委員会に出たことはあったのですが、本会議への出席は今年になってからのことです。
 先月中旬、9月議会が終わりましたが、市議会というのは国会と全く同じで、市長以下行政サイドと、市民の代表者である市会議員との間で、市政、あるいは国政の市政に関わることなどの討議がなされています。9月議会では「福山市内の小学校、中学校の再編(統廃合)」の問題、「地方創生」、「マイナンバー制度」、「防災問題」などが多く取り上げられ、特に学校の統合・再編問題については、地域から学校が無くなるという大変な問題なので、熱心に議論されていました。幸いと言っていいのかどうか分かりませんが、病院のことはあまり話題になることはなく、6回の出席で一度答弁をしただけで、それも病院の応援となるような質問だったのでありがたく思いました。
 4月以来、多くの人に「議会に出るのは大変だね」と言われました。医療に関わることを討議することは少なく(決算委員会等は別ですが)、事業管理者とはいえ、もともと医師である者が長い時間議場にいることは大変だと思っておられるのでしょう。私も最初はそう思っていましたが、実際はそうではなく、討論を聞くことは勉強にもなり刺激も受けました。医師になって間もない頃、長時間かかる手術の第三助手についたときは、手術は見えず、手足はだるく、ついには睡魔が襲いかかるということが何度かありましたが、議場では座って討議を聴くことができますし、この歳になっても、これまで知らなかったことを知ることはそれなりに楽しいものだと改めて思いました。やはり、人は未知なものへの興味を本能的に持っているのではないかと思います。私など、医療の世界しかこれまで見てきていないので未知のものが多く、まだまだ楽しい人生が送れそうで楽しみです。また、議員の皆さん方もよく勉強をされておられます。当然、行政サイドの役人も勉強していますので、もっとするどくやり合うような場面があればエキサイティングで面白いのではないかと思いました(単に面白いというのではなく、市の活性化に繋がると思います)。国会議員であれ地方議員であれ、それぞれの主張に違いはあっても国をよくしたい、地域をよくしたいという想いにおいては同じだと思います。野党であれ与党であれ、これも同じだと思います。もちろん、役人と言われる行政側の人たちも同じ思いでしょう。言いたいことが自由に言える国はやはり素晴らしいではありませんか、そんなことも感じました。
 以前、ある人から「検討」と[研究]の話を聞いたことがあります。どっちでもいいのではないかと思われるかも知れませんが、少し訳ありの行政用語のようで、「検討」とは「行う、実施する」に向けて考えることで、「研究」とは「今は、行うこと、実施することを考えていません」という意味らしいです。そんなことを頭に思いながら答弁を聴いていると、確かにこの二つの言葉の解釈は間違っていないかも、と思いました。ただし、この度の議会では「検討・研究します」という新しい言葉も使われて、果たしてどちらか分からないこともありました。どうやら世の中、複雑になってきているようです。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.100 岡山大学外科同窓会―過去・現在・未来―

2015年09月15日

 平成23年(2011年)11月から月2回このコーナーにいろいろなことを書いてきました。最初は2~3年程度のつもりでしたが、定年も1年延び、また定年後も病院に関わる仕事を続けていることもあって、ついに100回にまで達しました。この間、個人的には両親が亡くなるなど辛いこともありましたが、病院の方は職員の奮闘や地域の医療機関、市民の皆さんの応援で業績も上がり、医療資源の蓄積も図ることが出来ました。しかし、まだまだ課題も多く、これからも地域に暮らす人たちのために頑張らなければと思っています。
 先日、岡山大学外科同窓会という会がありました。岡山大学医学部は明治3年(1870年)に創設された岡山藩医学館が前身で、それこそ何かと話題の東京オリンピックが開かれる2020年に創立150周年を迎えます。歴史は随分古い医学部だと思います。この医学館の名称はその後、第三高等学校の医学部になったりしていますが、外科が出来たのは明治21年(1888年)だったでしょうか?いい加減な調べなので間違っていたら申し訳ありません。ただ、私の所属する第一外科が出来たのは大正11年(1922年)で間違いなく、この時に岡山医学専門学校は岡山医科大学となっています。そして第二外科がその翌年の大正12年(1923年)に出来ました。この第二外科が出来るまではおそらく一つの外科であったと思いますが、この後、平成3年(1991年)に心臓血管外科が第二外科から分かれるまでは、二つの外科の時代が長く続いていました。いわゆる医局という組織で、学生の頃は何が何だかよく分からない世界でした。
 この二つの外科は世間の人からも全く分からなかったと思います。第一外科は消化器外科が多い、第二外科は心臓や肺の手術が多いと思っていましたが、第一外科でも肺の手術を行い、また逆に、第二外科でも胃癌や大腸癌の手術を行うわけです。紹介をする先生たちはどこに送ったらいいのかよく分からないということもあったと思います。第一外科出身の先生たちは第一外科に、第二外科出身の先生たちは第二外科に、内科の先生は開業するまで務めていた病院へ、あるいはそこにいた外科医の出身の大学外科へという流れであったと思います。それぞれの外科に入る医師には勿論すべてではありませんが、不思議なことに一定の傾向があり、第一外科に入るものは昔の外科医に多いタイプ(勝手に想像して下さい)、第二外科に入る人はスマートで、学生のころから勉強家、のような感じがありました。おそらく、お互いが相手の外科を褒めるようなこともなかったのではないかと思います。

 そんな外科が、変わらなければと思いだしたのは、ひとつに患者さんの目線に立って、臓器別の診療体制にならなければならなくなったということ、ひとつに初期臨床研修制度が始まって以来、大学で研修する人が減り、大学外科として協力しつつ外科志望の研修医を獲得し育てていかなければならなくなったということでしょうか。
 この岡山大学外科同窓会は昨年発足したばかりの会で、出席している人は、関連病院の外科のトップの先生たち、指導医クラス、各病院で外科の後期研修を行っている若い医師、そして大学スタッフたちですが、主体は後期研修医で、彼らは私たちの世代のように「一」とか、「二」とか色はついておらず、彼らが外科のトップとして各病院を引っ張る頃には、本当の意味で融合した外科が出来上がっていると思います。
 今はグローバルな時代であって、一つの大学のそれぞれの外科がてんでばらばらに動いていては大学間競争に生き残れるはずはなく、また世界に挑戦することも難しいと思います。岡山大学外科には120年を超える歴史と、その間、それぞれの外科が蓄積したノウハウがあり、素晴らしい研究や臨床の成果があります。おそらくわれわれの同窓は今のこの瞬間にも困難な手術に立ち向かったり、研究を続けているでしょう。そして次の瞬間にもきっと。現在は一瞬です。目に見えた瞬間に時は過去へと流れていっています。未来は見えませんが、納得できる瞬間を送ることが、成果ある未来を導いてくれるに違いないと信じています。
 この病院も同じです。福山市民病院はたかだか38年の歴史ですが、多くの医師や看護師をはじめパラメディカルスタッフ、事務の人たちが今の病院の礎を築いてきました。今この病院で働くわれわれは、先達の医療への想いを引き継ぎ、より質の高い医療を創っていかなければいけないと思っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.99 ルビーロマン

2015年09月01日

 夏前、何気なくテレビニュースをつけていると、とんでもない値段のブドウの話が聞こえてきました。なんと、ひと房100万円のぶどうです。アナウンサーが一粒3万3千円と言っていたので30粒あったのでしょう。
 石川県はもともとブドウの産地だった(これも初耳でした)のですが、生産が落ち込んできたので、県がこの高価なブドウの開発に取り組み、2007年に品種登録し、地域の戦略作物としてブランド化を進めたそうです。ルビーロマンという品種なのですが、市場に出るには粒の大きさや糖度をクリアする必要があり、出荷量が少ないことが課題だそうです。滅多に口にすることがないので高価なのでしょうが、先日の初競りのルビーロマンは確か東京のホテルが競り落として、そこのレストランでお客さんの口に入ったと報道されていました。
 私は味覚には全く自信がありません。年末年始の頃に芸能人が出てきて、高価な肉と安い肉、あるいは高級ワインと安価なワインを選別させたり、ストラディバリウスと普通のヴァイオリンの音を聴き分けさせるような番組がありますが、GACKTさんを除いては皆さん散々の成績で、「なかなか分からないのが普通だよ」と一人で思っているのですが、さて、このルビーロマンの味はどうなのでしょうか?
 味覚自体は味覚障害のある人は別にして皆同じでしょうが、美味しいと感じるかどうかの味覚は人それぞれだと思っています。子供のころに美味しいと感じたものを大人になっても同じように美味しいと感じるかどうかはわかりませんし、美味しいと感じるかどうかはこれまでの経験・味の記憶と比べてどうなのかによって判断されているのでしょう。「昔はもっと美味しかったのに」と思うことがよくありますが、これなどは味の経験によって自分の味覚が磨かれてきたからそう思うのだと思います。
 味をきく自信などない私ですが、この10年ほどの間に「これは美味しい」と思ったものが三つあります。一つは宮崎の「太陽のたまご」です。もともと私はマンゴーのあの独特の味が全くダメで殆ど口にしたことはなかったのですが、ある後輩が宮崎旅行のお土産にと言って届けてくれた「太陽のたまご」を初めて口にした時は衝撃の美味しさでした。二つ目は山形の「佐藤錦」です。だいたいサクランボは酸っぱくて、あまりおいしいと思ったことはありませんでした。ある年の5月、山形で学会があった時の土産に学会場に出張販売に来ていたブースで目にしたのが一箱5,000円の佐藤錦でした。山形ならサクランボだと決めていたので自宅へのお土産として買いました。たしか宅配をしてもらったのですが、届いたサクランボを一粒口にした時の美味しさ、これは空前絶後の美味しさで、「こんなさくらんぼがあるのか!」と思いました。一気に食べてはもったいないので、家族一同に、「この佐藤錦は一日にせいぜい2粒か3粒」と数量制限をかけました。その後はこれほどのサクランボに出会ったことはありません。「佐藤錦」と書かれたサクランボも眼にはしますが、外れるのが怖いので買ってはいません。最後は何というワインか知らないのですが、息子夫婦と東京のステーキハウスで食事をした際に飲んだ赤ワインです。前菜を食べつつビールを飲んだりしていましたが、いよいよこれからお肉なのでちょっとリッチに、と思って1本7,000円の赤ワインを注文しました。本当は12,000円のワインだけど特別期間中なので安くなっています、というようなことがワインリストに書いてあったように思います。グラスに注がれたワインの味はこれまで経験したことのない極上の味でした。「さすが東京は違うね」などと息子たちと楽しい時間を過ごし、帰る段になって請求書を見て目が点になりました。なんとワインの値段が一ケタ違っていました。道理で美味しいはずです。この騒動で悪酔いをするかもしれないと思いましたが、高価なワインだけあって酔いがさめることもなく、また二日酔いも起こりませんでした。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.98 平均寿命

2015年08月15日

 先日、2014年の平均寿命が発表されました。目にされた方も多いと思います。それによると女性は86.83歳で世界第一位、男性は80.5歳で、香港、アイルランドに次いで第三位であるとのことです。ちなみに健康寿命です。これは健康上の理由で日常生活が制限されない期間を示す数値で、こちらのほうは男性が71.19歳、女性は74.21歳と報告されていました。平均寿命の長さは、この国の医療レベルの高さ、国民の健康への意識の高まり等を反映した結果だと思いますが、この驚異的な平均寿命の伸びは当然のことながら戦後になってからで、1960年に女性が、1970年代に男性が初めて70歳を超えたようです。もっと昔はどうかと調べてみると、縄文時代から室町時代は小児期を乗り切った人でも30歳くらいの平均寿命だったと書かれていました。この頃は今なら治りきる急性虫垂炎でも最後は虫垂がはじけて腹膜炎で亡くなっていただろうし、単純な感染症でも敗血症を起こして亡くなっていたのだと思います。30歳や40歳くらいではさすがに死にたくないですが、昔の人は平均寿命と健康寿命がほとんど一緒だったのではないかと思います。
 そこで、現在の平均寿命と健康寿命ですが、女性は12年、男性は9年の開きがあります。すこし乱暴ですが、平均寿命から健康寿命を差し引いた期間、ずっと医療あるいは介護資源を費やさなければならないということになると、その量は莫大なものになるように思えます。医療費の高騰の原因の一つになっているかもしれません。やはり大切なことは、健康な状態で長生きするということであって、寝たきりの状態や認知が進み自分が分からなくなった状態で長生きしてもなあ、と多くの人が思っているのではないでしょうか?しかし実際は、日頃これだけ元気だからそう簡単に訳が分からなくなるなどということはないとタカをくくっている人が多く、私もそうですが、自分の意思を書きとめたり家族に伝えている人は少ないのでしょう。「リビングウィル」を表明しておくこと、これを徹底すれば少しは医療費の増加を抑えることが出来るかもしれません。私ももう少しで健康寿命に達します。突然仕事が出来なくなる日が来るかもしれません。覚悟はしていますが、本当のところ内心ではもう少し先だろうと思っています。しかしそれでは、病院は私がどうなろうと困らないでしょうが、家族たちは何かと迷うでしょうから来年からは毎年正月に「覚悟を記そう」と考えています。
 余談ですが御承知の通り、世の中、超高齢社会に突入しています。80歳を超えた患者さんに大手術をすることも当たり前になりました。確かに皆さん合併症も起こさず元気で退院されていきます。「人は死なない」と思っている人もいるかもしれません。先日、ある患者さんが老衰で亡くなられましたが、家族の方から「病院に入っているのに、なぜ死んだのだ!」と苦情を言われました。何かおかしくなってきています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.97 あるフレーズ

2015年08月01日

 この国ではしばしば「団塊の世代」が話題になってきました。そして今も、医療の世界ではこの世代が後期高齢者となる2025年(平成37年)問題がクローズアップされています。高齢者ほど医療ニーズが高いのは自明ですが、2025年には75歳以上の高齢者が今より770万人以上増え、2179万人にもなるそうです。国の財政も厳しい中で、この人たちに適切な医療を受けてもらうにはどうしたらいいのか、それを見据えて大きな改革が行われようとしています。
 この国の医療はこれまでは「いつでも、好きなところで、お金の心配をせずに、必要なだけ医療を受けることが出来る」、そんな医療でした。ところがこれからは「必要なときに、適切な医療を、適切な場所で、最小の費用で受ける医療」というふうに変わっていくのです。ぱっと読めば同じような医療という感じを受けるかもしれませんが、実は大きく異なります。これからの医療で言う、「必要なとき」や「適切な○○」というフレーズはこれまでがそうではなかったので出てきた言葉なのでしょう。つまり、これまでは必要でないときに医療機関を受診したり、風邪で大病院を受診したり、もう入院の必要も無くなったのに自信がないからと言って長く入院していたり、効くのか効かないのか分からないような薬を大量に処方されたり、医療機関を渡り歩いたり、そんなことが医療資源の無駄遣いにつながっていたのだということです。医療機器にCTやMRIという画像診断装置があります。人口100万人当たりのこれらの台数は日本がダントツ(CT 101.3台、MRI 46.9台)で、OECDの平均と比べるとCTで4倍以上、MRIで3.5倍以上だそうです。皆さん方も、CTを撮ってもらって紹介されたのに、紹介先の病院でまたCTを撮られたという経験はあるのではないかと思います。これなどもある意味、無駄な医療というべきかも知れません。
 それぞれの病院には特色があります。得意分野や主な対象となる疾患群があります。国は2025年を見据えて、病院を4つの機能に分けようとしています。高度急性期、急性期、回復期、慢性期の4つです。もちろん、ひとつの病院でこれら機能を組み合わせて持つことも可能で、実際にそうしている病院もあります。
 国は2025年時点でのこれらの機能別必要病床数を推計して、その数値を先ごろ公表しました。これまでも病床数の規制はありましたが、どんな医療を行おうと施設基準さえ満たせば大丈夫でした。しかし、これからは地域の会議で病床の機能が決められ、たとえば急性期病床が過剰であれば、急性期医療をやろうと思っても出来なくなる仕組みになります。また、多くの都道府県で病床数が過剰であると言われており、広島県は6,200ベッド過剰状態だそうです。果たしてこの過剰ベッドの削減は上手くいくのでしょうか?国は病床を減らし、患者さんの居場所を「病院から施設や居宅へ」との考えで、在宅での医療や療養・介護を充実させようとしていますが、まだまだお寒い状況です。核家族化も固定化して、親の面倒を子供がみることが今後どんどん増えてくる状況ではないと思います。老々介護も限界があります。病院に入ってもらっていたら安心だという子供たちの気持ちもよく分かります。
 2025年までの10年、そしてさらにその先の2040年を見据えた最近の議論はあまり明るい話題もなく、やがて医師も過剰時代を迎えるようです。その頃には医師も2交代、3交代勤務になっているのかもしれません。私はその頃の医療を見ることは出来ないですが、少なくとも今以上、医療格差が拡がり医療難民が出ているようなことがあってはいけないと思っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.96 まちが消える

2015年07月15日

 日本創成会議は東日本大震災からの復興を新しい国づくりの契機にしたいとして2011年5月に発足した組織で、それ以来様々な提案をしてきています。昨年の5月でしたか、この日本創成会議から「消滅可能性都市」が896市区町村もあると発表されて大きな話題になりました。おそらく多くの方が目や耳にされたことと思います。この推計は「2010年から2040年までの30年間で20歳から39歳までの若い女性が50%以上減少すること」を指標に出されたもので、結婚あるいは妊娠可能性のある女性が地方から東京などの大都市圏へ移住すれば地方での出生が減り、相手のいない若い男性も都会に出ていき、後に残った老人はそのうち亡くなりやがて市町が消えてしまうというシナリオです。あながち嘘ではない気もします。また一方では、江戸時代どころから室町、平安や、そのもっと前の時代から住み続けていたであろう場所から本当に人がいなくなるのだろうかという気もしています。もちろん、創成会議は市町が消滅しないための「ストップ少子化」の対策も提言はしていますが、独身の女性の3割以上の人が結婚や子供に興味がない現実もあり、とにかくいろいろな問題が複雑に絡み合っていて、人口減少、少子化の問題は難しい問題だと思っています。
 さて、この896市区町村、この病院のある福山周辺はどうなっているのか見てみると、府中市、神石高原町、笠岡市が該当していました。神石高原町はなんとこのままだと74.5%も若い女性が減るそうです。町はいろいろな施策で人を増やすように努力をされているのでしょうが厳しそうです。私の故郷の京丹後市も消滅可能性都市に該当していました。消えてしまえば故郷が無くなるわけですが、私の甥に二人女の子がいるので、この子たちを都会に行かせないように頼まなければと思っています。

 この創成会議は今年の6月にも2025年には東京、埼玉、千葉、神奈川の東京圏では75歳以上の高齢者が今より175万人も増え、この人たちの世話をするだけの資源がこの地域にはないので、田舎へ移住したらどうかという提言をしていますが、この後ある新聞の投書欄に「大きなお世話だ」と載っているのを見ました。「自分たちの故郷は東京だ。今住んでいる街で最期を迎えたい」と書かれていました。そうだと思います。私は田舎が大好きですが、暮らすには不便だと思っています。自分で車を運転でき買い物に行くのに不都合がない間はまあいいでしょうが、やがて動けなくなり、支援体制も不十分で、ましてや回りに古くから知っている人がいないような環境で最期を迎えたいとは思いません。
 私は今この国は目先が効きすぎ腰が軽すぎる気がしています。安保も教育も医療ももっと根っこから考えないといけないと思っていますが、具体的な提案があるわけではありません。しかし、一人ひとりが正しいこと、生を受けた責任を果たすこと、やらなければいけないことを行い、自分のためではなく他人のために生きることが当たり前になれば、たとえ人口は減ってもそれなりに楽しく安心して暮らせるのではないかと思っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.95 稲森さんの方程式

2015年07月01日

 京セラの創業者、稲森和夫さんの名前は多くの方が耳にされたことがあると思います。稲森さんは27歳の時(1959年)に所持金わずか1万2000円に加え支援者から300万円を出資してもらい、それを元手に1000万円の借り入れをして京都セラミックという会社を設立されました。会社の設立趣意書には「社会のために」という理想を掲げられ、7人の仲間とともに町工場から始まった会社は今や売上高1兆6000億円の大きな会社に成長しています。
 この稲森さんが今年の春、京都で行われた日本医学会総会で「医学と倫理―利他の心で世のため人のためにつくすー」という題で講演をされたのですが、その要旨が記事になっており、最近それを眼にしました。それには、医療はヒポクラテスの時代から常に高い倫理を求められている分野であり、これに従事する者は高度な倫理観が求められている。すなわち、医療に携わる者は「己の利益ではなく他人の利益を優先して考えなければならない」と言うことだ、とありました。これは当たり前のことであって、多くの医療従事者はその想いで仕事をしていると思っていますし、特に救急の領域では医師や看護師等の献身的な努力、この言葉は使いたくはありませんが献身的な自己犠牲の上に成り立っているところが多いと思っています。
 また、稲森さんはこれまでの人生経験からひとつの方程式を導き出したと語っておられます。その方程式とは「人生の結果=己の持つ思想・哲学×熱意×能力」という式で、どれかがマイナスだと全体がマイナスになる、つまり高い能力のある人が悪い哲学を持つと、能力があればあるほどマイナスが大きくなるということです。稲森さんは悪い哲学(思想)として恨みやねたみ、虚栄心などを挙げられていますが、医療を行う者は常に人間として正しいことを貫く哲学、基本的な倫理観を持っていなければいけないと言っておられます。私はこれまで人生を方程式で表そうと思ったことはありませんが、この方程式はおそらく正しいのではないかと思いました。
 稲森さんは京セラ以外にもDDIの設立、JALの再建等の仕事もしてこられましたが、何か新しいことを始めるときには必ず自問自答をされるそうです、「動機善なりや私心なかりしか」と。「私心なく生き、心を高めること」を人生の目的とするべきで、それが実践できれば、個々の力には限りがあっても、他力の風を受け人間の力を超えた力を得ることが出来ると結ばれています。
 私もいつか人生の方程式の解を導いてみたいと思っていますが、「京セラの稲森氏、鹿児島県・鹿児島市にそれぞれ20億円寄附」などという記事を見て羨ましく思っているようでは、まだまだ正解は得られないかもしれません。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.94 モチベーション

2015年06月15日

 仕事をしていくに際して確かにモチベーションは大切です。小学生、中学生の頃は学校の成績が上がれば父や母が喜んでくれる、そんなことが頑張ろうという気持ちにさせていたように覚えています。いわばこれがモチベーションだったのでしょう。
 仕事を持つ者としては、モチベーションはそれをモチベーションだと意識はせずとも、自分自身の到達目標に少しでも近づきたいという気持ちではないかと思っています。
 私は外科医を選択してからずっと「ひとかどの外科医」になることを到達目標にしてきました。「ひとかどの外科医」というレベルは、私の中では「並はずれた腕を持った外科医」ではなく「普通の外科医」であり、オーソドックスな手術ならちゃんと出来るというレベルの外科医です。この「ひとかどの外科医」になることは、私に手術を任せてくれる患者さんに対する責任であると思っていましたし、あるいはそうなれば両親が喜んでくれるということも心の中にはあったのかも知れません。手術がどれだけ大変であろうと、いつなんどき病院から呼び出しの電話がかかろうと辛いと思ったことは一度もなく、「ひとかどの外科医」になるためには「当たり前のこと」だと思っていました。給料は有りがたく貰っていましたし、夜間、救急患者さんが来られても「勉強できた」と嬉しい気持ちになりました。今の若い人たちは昔と違うと言われていますが、仕事に関しては今の若い医師達も昔の医師たちと同じ気持ちで仕事をしていると思っています。
 若い頃のモチベーションは自分のことだけで事足ります。他の人のそれまで気にならないのが当たり前でしょう。しかし、齢を重ね、一兵卒から役職がついてくるに連れ、組織の業績を上げるために他の人のモチベーションに気を配らなければならなくなってくると思いますが、私の所属する外科という集団のトップでいる頃はそれほど難しいことではありませんでした。外科医は基本的に手術が大好きですから、患者さんを増やして後輩に手術をさせること、時には手術を見せることでだいたいモチベーションは十分保つことが出来ます。もちろん合併症が起こればブルーにもなりますが、そんなときには声をかけ話を聴き、答えは出せずとも胸の内を共有することで、時がたてば元気になります。ただ、私の知らない診療科や職種についてはよくわかりません。そんな人たちのモチベーションを意識するようになったのはやはりこの病院で院長になってからです。
 院長になってからの私のモチベーションは「病院を少しでも良くして地域に貢献すること」ですが、これが結構大変で、「想い」は間違っていないと思っていますが、その処方はそれこそ一筋縄ではいきません。「医療職としての使命感」、「地域における自治体病院の使命」、「公務員としての役割」などの論を振り回しても限界があると思います。多くは若い頃、社会に貢献するという教育を受けてきたかどうかで決まるでしょうし、また十分な人を確保したり、アメニティを改善し少しでも就業環境を良くしていくこと、医療機器を整備すること、職員のキャリア形成のバックアップをすること、そして給与などの環境整備を行い、「働くモチベーション」をくじかないようにすることが必要だと思っています。しかし、これには資金も必要で、最近、右を向いても左を向いても頸が痛くなってきています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.93 福山というまち

2015年06月01日

 私が少し離れた地域にある都市(まち)を知らないのと同様、中国地方に暮らす人を除いては福山市について殆どご存知ないのではないかと思います。福山について何か知っておられることはあるでしょうか?福山市は岡山県でしょうか、広島県でしょうか?
 福山は広島県の東の端にあり、岡山県と県境を接しています。私は「福山知っとる検定」は受けていませんし、勉強もしていないのでよく知りませんが、江戸時代に入ってから、徳川家康の従弟(父方)である水野勝成が備後と備中諸郡を合わせて10万石の城主となり福山城を築き、城下の整備などを行い近世の町としての体裁が整っていったようです。また、幕末の頃に幕政を担当し安政の改革を断行した老中首座の阿部正弘候は福山藩の藩主でした。水野家、阿部家ともども譜代大名であり、福山藩は歴代、西国に多い外様大名を抑える役割があったようで、このことが明治維新の頃のごたごたした行政区域の決め方に影響しているのではないかと言われています。福山は古い国名で言えば「備後」に位置します。言うまでもなく「備後」とは吉備の国を三つに分けた「備前」、「備中」、「備後」の「備後」です。維新後、福山は今の岡山県西部(倉敷以西)と一緒に「小田県」という県に組み入れられましたが、明治8年に「小田県」は岡山県に編入され、明治9年に「旧小田県」の備後福山だけが広島県に編入されたそうです。
 広島市は「安芸」の国であり、備後とは違います。明治の頃から「安芸人」と「備後人」のお互いを意識する意識度は高く、これは私の感覚ですが、「安芸」に暮らす人たちは福山を広島県とは思っていないのかもしれません。また、古くから福山に住む人たちもどちらかと言えば岡山県にシンパシーを感じているように思いますが、だからと言って岡山県が何かをしてくれるわけではなく、福山はかわいそうな街であるかも知れません。
 そんな福山が元気を取り戻してきたのは何といっても日本鋼管の福山への進出だったのではないかと思います。人が集まり、古くからの「物つくり」の技が活かされ、「Only One、No1」の企業が多いと言われるようになってきました。私が最初に福山に来たのは昭和52年(1977年)でしたが、その頃は田畑しかなかったところに今ではさまざまの施設が立ち並んでいます。確かに賑わってはきましたが、知名度からはまだまだで、この街のキャッチコピー、「何もないとは言わせない」と言いつつ、まちおこしを進めています。
 福山市の市花に「ばら」があります。昭和20年(1945年)8月、「戦後の悲しみにあふれた町に笑顔を」と、行政と市民が一体になり市内の公園にバラの苗1,000本を植えたのが「ばらのまち」への第一歩だったそうです。今、その公園は「ばら公園」と名付けられていますが、福山市は来年の市制100周年に向けて「100万本のばら」を合言葉にばらを植え続けています。とにかく、福山は「ばらの街」です。「リーデンローズ」、「ローズアリーナ」、「まわローズ」など、「ローズ」という名前のついた施設や乗り物など、これでもかと言わんばかりです。「ローズ」の仕上げは「福山ばら祭」で、つい先日、今年の「ばら祭」が開催され、80万人の参加者で盛り上がったそうです。いつか是非、この時期の福山に来て頂いて、「ばら祭」と鞆の「鯛網」の観光はいかがでしょうか。
 皆さま、福山の心は「ローズマインド」なのです。「ローズマインド」とは先述した終戦後のばらの苗植えの心、すなわち、「思いやり、優しさ、助け合いの心」を表す言葉で、われわれ公務員としてはいっそう気に留めなければいけない心だと思っています。
 確かに福山はこれといった観光資源に乏しいのは事実ですが、「潮待ちの鞆の浦」、「明王院」、「福山城界隈」、「神辺本陣」など見るべき旧跡も多くあります。福山・尾道に寄られた後、最近全線開通した松江道を通り山陰へ、というルートはいかがでしょうか。なんだか、観光課の手先のような文章になってしまいましたが、福山ってこんな街かということを、一人でも多くの方に知ってもらえれば十分なのです。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.92 伝統2

2015年05月15日

 No60で伝統について一度書いていますが、先日、岡山大学麻酔・蘇生学教室(麻酔科)の開講50周年の式典に出席する機会があり、感じるところがあったので続編を書かせていただきます。
 岡山大学麻酔科は1965年、小坂二度見(ふたみ)先生を初代教授として開講されました。私も学生時代に講義を受けましたし、医師になってからも麻酔標榜医の資格を取得する際にお目にかかって話をさせていただきましたが、本当に熱意にあふれた威厳ある先生でした。この式典で同門の先生が、小坂先生のエピソードをいくつか披露されましたが、今聞いてみるとなるほどと思う話がありました。ひとつ、「私には敵か味方か、YesかNoかしかありません」、また、先生は戦中海軍兵学校に進まれていましたが、教授室には「Z旗が掲げられていた」など、先生の強いリーダーシップの一端を見たように感じました。
 小坂先生は教授に就任されたのち、「開講50年の時には日本一の麻酔科教室になる」と言っておられたそうですが、確かに現在、岡山大学麻酔・蘇生学教室はこの国のトップレベルの教室員数や研究業績を誇る教室になりました。先生は26年間教授を務められましたが、その間強力なリーダーシップで教室を運営され、その意志をその後の教授がしっかりと引き継がれ、「患者が第一」、「人を育てる」、「世界に羽ばたく」、そんな気風が当たり前にある教室になっていったのではないかと感じました。
 「伝統」を広辞苑で引いてみると、「ある民族や社会・団体が長い歴史を通じて培い、伝えてきた信仰・風習・制度・思想・学問・芸術など。特にそれらの中心をなす精神的在り方」とあります。先の麻酔科の気風はまさにこの50年の間に培われた精神だと思います。
 「伝統」として受け継がれていくもの、それが生まれるには何が必要なのでしょうか?私は6年半前にこの病院に赴任してきた時、「この病院には伝統がない」と感じました。この病院が開設されて32年目の時です。恐らく、各々の診療科や部署には科としての「伝統」はあるのでしょうが、病院全体を強く結束させるような横串的な思想を感じませんでした。32年は伝統を作るにはまだ短いのでしょうか?この病院は開設以来、時代の要請に応じて増床を続け、また病院機能を整備してきました。常に眼の前に大きな課題があり、腰の落ち着いた時期がなく、作るべき風土の土をどこへ運べばいいのか、気風の風をどこへ吹かせばいいのか考える時間もなかったのではないかと思っています。岡山大学麻酔・蘇生学の教授は現教授が4代目です。麻酔科のリーダーが50年間で4人であるのに対して、この病院は38年間で院長7人であり、リーダーシップを発揮し風土作りをするには在任期間が短いのかもしれません。もちろん、問題のあるリーダーが長くいるのはもっと問題だとは思いますが。
 私はこの病院の「伝統」を作りたいと思っています。私が勤務している間にそれが出来るかどうか分かりませんが、種は蒔きたいと思っています。われわれ医療に関わるものは誰よりも人に対して「優しく」なければならないと思います。組織の一員としてというばかりではなく社会で生きる者として「和」を大切にしなければならないとも感じています。また、専門職として「その知識や技術を高めることが当たり前」でなければなりません。そして、自らが会得・経験したことを学術の場を通じ「情報発信」し、かつ次の世代を「教育」する義務があると思っています。この病院で働く人が、このようなことを意識して働いてくれたら、何年か後には素晴らしい「伝統」が生まれてくるに違いないと信じています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.91 外科医39年(11)

2015年05月01日

 2009年1月、私にとって消化器外科医としての原点とも言える福山市民病院に30年ぶりに帰ってきました。私が以前この病院で仕事をしていた頃は250床の中規模病院でしたが、赴任当時は400床となり、病棟も増築され、また機能的にも救命救急センターを併設し、地域医療支援病院やがん診療連携拠点病院などに指定されるなど随分様変わりをしていました。職員の中には開設当時から頑張ってきた人たちもいて、これまで赴任してきた病院とは違い、外科の仲間以外にも顔見知りが多く、わりあいすんなりと仕事に入ることが出来ました。
 外科医にとっては手術室と病棟が主な仕事場で、手術室に入ることが少なくなったり、患者を受け持たなくなればその最後が近づいて来ているということになります。私の場合は前任地の広島にいる頃から次第にそうなってきていましたが、福山に赴任して来てからは広島時代に増してその傾向が強まり、昨年(2014年)はついに4回しか手術につくことはありませんでした。逆説的にみれば私が手術をしたり手術についたりしなくても、クオリティの高い手術が出来ているとも言えるわけです。若い頃は病棟には朝・昼・晩・帰る前と1日に何回も行っていました。今は1日に1回が関の山ですが、「行かなければいけない」と、紹介を頂いた患者さんの顔だけは極力診に行くように決めていて、主治医に時々注文をつけていますが、煙たがれているのかもしれません。
 実はこの外科医シリーズは今回が最終回になるかもしれないので(11)ではなく(完)にしようかと思いました。しかし、実はまだ手術から足が洗えていないのです。この市民病院で自分が執刀することはないのですが、院外の病院に依頼をされて手術に出かけることがあります。昨年も20例近く、膵臓の手術ばかりですが執刀する機会がありました。手術は眼が確かで手が震えたりすることがなく、状況判断が的確であれば基本的には幾つになっても出来ると考えています。私は眼は拡大鏡を使えば全く問題はありませんし、手の震えも皆無です。後は状況判断が的確かということですが、これは他の人に評価して頂かなくてはいけません。これまで「そりゃあ、おかしい」と言われたことは無いので今のところは大丈夫だと思っています。
 外科医を今日まで42年間続けてきて後悔したことは一度もありません。学生時代には脳神経外科医か心臓血管外科医を選択しようかと思ったこともありましたが、消化器外科医を選んでこれまでこの仕事の「やりがい」を知ってしまった以上、もう一度学生に帰ったとしても迷うことなく「消化器外科医」を選ぶと思います。そんな「やりがい」のある外科が、医学生に人気がないのを不思議に思っています。今の若い人は楽をしてそれなりの生活が出来ればいいと思っているのでしょうか。患者さんより家族との生活を大切にしたいと思っているのでしょうか。数年前に天下のT大の眼科に何十人か入局したという話を聞きました。真偽は確認していませんが、何かおかしいと思った人は多くいたに違いないと思います。
 私の父は教師でした。母も父と結婚する前は教師をしていました。私には結構濃い教師の血が流れているのかもしれません。外科医として外科のスキルを教えることは出来ないにしても、外科のやりがい、外科医の心がけや手術に際しての戦略は教えることが出来ます。また、病院に実習に来る医学生や看護学生に医療の素晴らしさ、私の思う専門職としての在るべき姿をこれからも伝えていこうと思っています。

 追伸―「外科医39年」を読まれた方々へー
 「キツイ・キタナイ・キケン」と言われる外科医を42年間続けてきての素直な思いです。
 医療の世界に完璧はありません。医師や看護師、その他多くの医療関係者は全て「患者さんや家族の皆さんのために」と思って仕事をしています。まずそのことを理解して欲しいと思っています。私は今の医師をはじめとする医療関係者と患者さんの関係はどこかおかしいと思っています。医師は自分を守るために万に一つの合併症を説明しなければいけないような現状、患者さんの側も万に一つも起こらないことが仮に起こった時、「そんなことは聞いていない」と医師に詰め寄る現状、医療関係者と患者さんは信頼関係で結ばれていなくてはならないのに対立するような関係になっている現状、もちろん手術の必要性や術式、手術をはじめとするそれぞれの治療法のメリット、デメリット、起こりうる合併症などを説明して最後は患者さんやご家族に治療の選択をお任せするにしても、最後の最後は「先生に任せた」と言ってほしいのです。患者さんやご家族に信頼して頂くことほど医師に勇気を与えるものはありません。私自身これまで多くの患者さんに出会い、外科医として手術をさせていただきましたが、いちばんありがたかったのは「先生にしてもらえたら何があっても本望です」という患者さんの言葉でした。それでもその結果に対する覚悟はいつも持っていました。おそらく医師は誰もがそう思っていると思います。
 もちろん、医療にミスがあればそれは病院の責任です。それは厳しく検証されなければならないと思いますが、どうしても避けることのできない医療事故が起きることもある、というのが医療の現実なのです。
 すべての医療関係者と患者さんやご家族が手を携えて、お互い信頼しあい医療を守っていかなければ、本当にこの国の医療が崩壊するのではないかと強く思っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.90 外科医39年(10)

2015年04月15日

これはNo87外科医39年(9)の続編です。

 広島市はご存知の通り中四国では最大の都市です。太田川のデルタ地帯に街が造られていて、北側には山が迫っていることもあり狭い地域に大きな街があるという印象を持っていました。私が暮らしてきた街の中では京都市と並んで最も大きな街で、食べるにも呑むにも苦労はしませんでした。広島ももちろん単身赴任でした。赴任前の2年間、岡山で自宅から大学という、食事や風呂はいつでも用意されている、冬でも帰宅した時には室内が暖かいという通勤を経験しただけに当初は不便さを感じていましたが、しばらくすれば以前の感覚もよみがえり、それなりに快適な1LDK一人住まいをしていました。
 広島市民病院は岡山大学の関連病院の中では最大規模の病院で、外科の手術症例も同門の中ではトップの症例数を誇っていました。ただ、「症例の割に学会発表や論文が少ない」というのが当時の見方で、これを何とかしないといけないと思いつつ赴任しました。外科(消化器、乳腺)のスタッフは当時でも10人以上いて、その他に岡山の第一外科、心臓血管外科、広島の原医研外科などから若い医師が何名もきていて、毎日が手術日です。若い研修医は朝から晩まで手術に入り、手術が終わってから当日入院してきた患者さんのカルテ記載、指示出しを済ませ、夜中に手術の標本整理をしていました。これでは臨床に追われるばかりで学術活動は厳しいと確かに思いました。しかし、それでは私が赴任した意味がないと思い、「論文を書かなければ患者を診させない」と、今思うと随分酷な方針をたてお尻を叩きました。私が赴任した当時も、この春胃癌学会を会長として主催したN先生や、乳腺外科のH先生はしっかりと学術活動をしていましたが、人によって濃度に極端な差がありました。彼らにこれまでやっていなかったことをしてもらうのは難しいので、いきおい若い人にその活動を求めたわけですが、若い先生たちはちゃんと期待する仕事をしてくれました。彼らは今、外科医としてそれぞれの病院でしっかりと仕事をしていますが、彼らの名前を学術雑誌や学会のプログラムの中に見つけると嬉しくなります。
 赴任当時の広島市民病院での私の仕事は「肝胆膵外科」の臨床でしたが、赴任して半年少し経った頃、外科トップのO先生が定年を1年余して辞められたので、私が外科主任部長になり外科をマネージする立場になりました。庄原日赤時代に3年間その立場を経験しましたが、庄原とは違い大所帯のマネージですので、いろいろ考えるところもありましたが、要は「外科の業績を上げることで病院に貢献する」ことを第一に考え、そのために外科スタッフの就労環境を改善したり、合併症症例のカンファレンス、抄読会など「チームとしての外科」を意識させるようにしてきました。評価は人がするものですが、多少は広島市民病院の外科に貢献できたのではないかと思っています。本職の「肝胆膵外科」はS先生(現副院長)と二人でやっていましたが、その後現在はI医療センターのA先生、今も広島で頑張っているM先生と先行する広島大学外科を追い越そうと頑張ってきました。膵頭部癌術後の患者さんが術後出血して手術になった時には、夜中で新幹線が走っていない時間だったので、家内に岡山から広島まで車で送ってもらったり、どういうわけか門脈に瘤ができて破裂したり、どうにもならないと思っていた膵液瘻が訳の分からないまま治ったり、本当に忘れられない患者さんを数多く経験させていただきました。
 広島市民病院では外科のマネージ、臨床以外の仕事も経験しました。外科を新しくするには最低3年は必要と考えていましたが、主任部長になって2年で副院長の職務を与えられました。これには正直困りました。外科の主任部長であれば第一線の戦闘部隊の隊長なので「分からん奴はついてこい」と言えますが、副院長などという職務はいったいぜんたい何をしたらいいのか経験もなく分かりませんでした。当時のO院長に「主任部長としばらく兼任できないか」と相談しましたがダメでした。私に代わって外科の主任部長には新しくN先生がなられたので、彼の仕事を邪魔しないように、それでも多少口も挟みつつ、臨床も少しはやりながらの副院長業務でした。
 副院長という身分は権限が特にあるわけではなく(広島では院長も権限はないように見えましたが)、何をモチベーションに仕事をするのかが課題でしたが、やはり「よりよい病院にすること」が一番だと考えました。副院長になって委員会活動を任されるようになりましたが、私は「感染」、「栄養」、「診療録管理」を担当しました。これらの領域の質を上げることが仕事だと、どの領域も専門ではありませんが、専門家の意見をとにかく汲み上げるようにしていました。その頃、広島市民病院が病院機能評価を初めて受審することになったことや、地域がん診療拠点病院に選定されたこともあり、機能評価の「医療の質」の部分、がん拠点としての体制整備も担当し、課題に対して他職種が連携し「全員参加」で対応するシステムも造ることが出来ました。いずれにしても病院が変化していく様を体験できたのは大きな喜びでした。
 広島市民病院には9年間在籍しました。これまで在籍した病院では一番長くいたこともあり、多くの先輩、同僚、後輩と仕事をすることができ、大きな財産になりました。2008年(平成20年)4月に広島市民病院の院長に私と年齢が一つ違いのO先生が就任されました。広島で引き続き仕事をするという選択もありましたが、私が在籍することで次の副院長や院長候補の優秀な先生の芽を摘むことになるのではないかと考え、「先生、うちに来てくれませんか」と声をかけて頂いた現在の福山市民病院に2009年1月から赴任することになりました。
 この福山市民病院こそ、No51外科医39年(4)で書いている私の消化器外科医としての原点ともいえる病院で、不思議な因縁を感じました。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.89 新年度

2015年04月02日

 3月の中頃には雪が舞うような日もありましたが、今週になってあっという間に病院の桜も開いてきました。私が春夏秋冬の季節変わりを最も実感するのは冬から春への時で、何といっても桜です。そして桜を見るともう一つ、潔く生きなければならないといつも思います。皆様方はどうでしょうか。
 3月は別れがあるからあまり好きではないと前回書きましたが、4月は出会いがあるので昔からわくわくする月でした。私が小学校生の頃は1学年上のクラスはひとクラスでしたが、私たちの学年からふたクラスになっていて、新学期のクラス変えでは誰と一緒になるのだろうかといつも楽しみでした。中学生になれば近隣の小学校から全く見知らぬ子供が集まるので、毎年クラス変えをしても3年間一度も同じクラスで学んだことのない人もいました。医師になってからのたびたびの転勤に際しても、新しい土地での人や自然、そこに暮らす人たちとの出会いは前任地での親しい人たちとの別れの寂しさを癒すに余りある喜びがありました。
 福山市民病院でもいよいよ新年度が始まりました。新しく病院に採用された職員がきびきびと動いている姿を見るのは実に気持ちがいいもので、私自身の当時の想いを思い起こして、「頑張らなきゃ」とギアチェンジをしています。私は日頃から「人は時々原点に立ち返らなければいけない」と思っていますが、4月は誰もに原点を思い出させてくれる月ではないでしょうか。
 さて、新年度の私は、と言えば、この4月で院長職は退任し管理者職に専念することにしました。従って、このコーナーも「院長室より」が「管理者室より」に変わっています。耳慣れない言葉かも知れませんが世に言うCEO(最高経営責任者)だと思って下さい。
 医療の世界は今、大きく変わろうとしています。これまではその病院独自の考えで病院の運営をしていけばよかったのですが、これからはそうもいかなくなりそうです。いよいよ「地域医療構想」の策定という作業が始まります。この「地域医療構想」の策定というのは2025年(平成37年)の地域(基本的には二次医療圏)における医療需要を推計し、適切な医療提供体制を構築しようというもので、これは自分の病院のみならず地域の病院すべての意向をくみ取り集約しなければならないという大変困難な作業です。当然、個々の病院の考えとは違う結論が出されることもあり、抵抗する病院も出てくると思いますが、収益が絡んでくる話だけに余程の大岡越前が出てこない限り紆余曲折も予想されます。私はこの病院の立ち位置は決めていますが、はたして「協議の場」でちゃんとその位置に立たせてもらえるのかどうか分かりません。また、この病院のような公立病院は今年度を目途に「改革プラン」を策定しなければなりません。自治体病院は今なお半数の病院が赤字の状態であり、国からその改善への道筋を示せと言われているわけです。こんな医療にとっては逆風の中での舵取り役が務まるのかどうか、ですが、やらなきゃならないと思っています。出来なければ「桜」になる覚悟は出来ています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚


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